泣き虫エリオット

 

リヴァプールのエリオットが私の部屋の片隅で震えている。私は訳を訊く。たぶん、英語を話していたと記憶している。エリオットが家へ来る前、地元の知人たちからメッセージを受けた。「エリオット指名手配かけてるから、アイツから連絡あったら教えて」との内容だった。エリオットはリヴァプールのユニフォーム姿のまま、震えながら涙を浮かべている。私はそっとエリオットの肩を抱き、匿うべきか否かを考えていた。事情から考察するにエリオットは何も悪くないのだ。私は正義と保身の間で揺れていた。仮にエリオットを守り、そのことがバレてしまえば、今度は私が指名手配を食らうことになる。私は穏やかな生活を手放したくないのだ。しかし、私が私のためだけにエリオットを裏切ってしまったら、エリオットの心に深い傷を、未来まで遺恨を残すことになる。未だ若いエリオットを傷つけないことは私の正義であり、正しい未来だった。私は決心した。私は私の身もエリオットの身も守ることを決意し、エリオットに尋ねた。エリオットはゆっくりとこう言った。「試合に出たい」私はエリオットを抱きしめ「あかん、絶対バレる。バレたら終わる。今は我慢して欲しいねん」エリオットの涙袋は決壊し、ポロンポロンと涙がこぼれた。そして頷いた。私はエリオットの熱さが私の保身を終わらせるのではないかと気が気でなくなり、強く強く抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

しみったれた部屋

 

最後の最後までしみったれた部屋だった。この部屋へ帰りたくなさすぎて、大阪にいながらホテルへ泊まったこともある。部屋が狭いので横になること以外とれる姿勢がない。タバコを吸うスペースは風呂場くらいのものだが、それでも風呂場で吸うのは寒いし、座れないから扉を少し開けて、その前に座り、腕だけを風呂場へ差し込み前屈みになってタバコを吸う。この姿勢の情けなさ、扉の隙間から部屋へ侵入してくるタバコの煙が8年間ストレスだった。ゆっくりタバコも吸えない。この部屋でタバコを吸ってうまいと思ったことは1度たりともない。

この部屋には気の休まる場所もお気に入りの場所も一つもない。労働のための蛸壺部屋のようなものだ。服は半分くらい捨てたが、やはりまだまだある。住まいを新たにしても、この圧迫感とやり合わなくてはいけないと思うと死にたいような気がする。それでも今の暮らしよりはよっぽどマシだろう。8年間苦痛以外の何をも、齎さなかったしみったれた部屋。憎い部屋。実家の一人部屋の方がよっぽど広かった気がするが、そうかと頷く。この部屋は実家の一人部屋のときの居心地の悪さを引き継いでいるような気さえする。家としての機能を果たしていないのだ。

一週間を経たずして、この部屋とはさようならだ。清々しい思いと引越しの煩わしさ。そんな渦中にコロナでバアアン。この部屋に監禁される羽目となった。8年間こんなに多くの時間をこの部屋で過ごしたことはなかった。圧倒的な苦痛だった。このクラスの苦痛はそうそうない。拷問だった。生々しく詳細に書きたいが、精神も肉体も今は脆弱であるから、負けてしまうから何も書かないでおこう。書くことそれ自体が体験だからだ。ただおれは夢から覚め幾度となく殺してくれと呟いた。

だから、退去の週に差し掛かる頃合いに、コロナとは本当に悪い冗談というか、惨たらしいというか、運命を呪うような気持ちだった。部屋の呪いだと言いたいが、私の中に過ったものは清算だった。そして、清算と書いたところでおれはブチっとくる。なぜだ?なぜ償わなければならないのか。償うべきはお前たちではないのか。おれはただべらぼうに働き、このしみたったれた部屋で寝て起きて働いた。何を粛清される必要があるのか。俺は知っている、お前たちには貸し借りという概念はなく、ただ一方的に奪うことと与えることしか知らない。それもそうだ、お前たちの恩恵であったりその逆のことを含めて我々は運と呼ぶのだ。アホらしい、何をキレているのか

 

 

 

 

 

 

 

 

無心で食らうひとたち

 

無心で牛丼をかっ食らう姿が目につく、住宅街の吉野家。この辺は単身赴任者ではなくファミリー層が多いから、おそらく「ほな、外で飯食うて帰るわ」とサラリーマンたちが仕事の終わり、腹を満たすためだけに立ち寄っている。身内がいようが挨拶を交わさないだろう、それが暗黙の了解だと思えるほどに丼から顔を離さない。私はその光景が好きで、私はまるで遊び人のような、仕事終わりでも、それとは見えないような姿をしているが、彼らと同じように一日を働き貫いているし、肩を並べる権利がある。そのことが誇らしく思えるような殺伐とした空間、疲れすぎて痴話喧嘩すら起こらないだろうことは容易に想像がつくような空間。このようか吹き溜まりはとても居心地が良く、私も利用する。私は人の話し声があまり好きではない。お前たちの情報はほんとうにどうでもよく、特に大学生同士の会話は関係が透けて見えるし、虚栄に溢れている。高校生まではくすんでも未だキラキラしていただろうに、犬の涎のように。

 

 

鳴き声

 

何かしらが鳴いている声が聞こえて用水路へ屈みこんだ。ライトでぐるっと照らすも、何もいない。風も吹いていないのに草がそよいでいるだけだった。用水路を満たすほど、さきほどの雨は降らなかったらしい。急に雷を伴って雨粒が天井を叩いたのは19時ごろだった。それから1時間も経たずに雨は止み、黒光りしているアスファルトを見て思い出すほどに雨を忘れていた。

聞いたこともない声で鳴いている。灯りを照らせば声がやむ。お前はお呼びでないと言われているような気がする。私にはその声が苦しそうに聞こえたから、まあ何かアレであれば救ってやろうと思ったが、どうやら本人は同種を呼んでいる様子だった。

猫ではない、蛙でもない、カエルも七色声があるが都会の用水路に潜むものなんて種が知れている。鳥のような気がする。水路の上の部分、云々はコンクリで舗装されていて、鈍臭い奴が落ちたことがあるのか、はたまた生活の都合かは知らないがよくある用水路のステップだった。その程度のルーメンでは俺を照らせないぜ?というほど、日のあるうちはそんなに長くは感じないのだが、私のルーメンでは俺の奥を伺い知ることはできなかった。

虫は、カエルは、鳥は、猫は、なぜ鳴くのか。誰かを呼んでいるからだ。声はいつでも誰かを招いているのである。そして、その声に振り向く者は決して本人が意図する者ではない。それを承知で声を上げている、かの生き物たちに倣えばSNSのポスティングも声である。声は常に特定の相手を目指すが届く者は必ずしも届けたい者ではないだろう。光を向ければ沈黙し、闇に戻ればまた鳴き始める声は、たとえ私が何ルーメンだろうと照らせない。たとえば、私が発声源を見つけたとして、その声は聞こえるだけできっと意味が意図がわかるはずもない、それが人であっても。

学ぶな

 

女がひとりで転んでひとりで笑って立ち上がる。その様を見て、この女は誰に向かって笑っているのかと不思議に思う。自省的に笑っているのである、誰を欺いているわけでもない。恥ずかしいということだ。恥ずかしさを笑みで誤魔化す醜さが女の顔に張りついている。その弱弱しさたるや、よくぞその年まで生きてこれたと手を叩いてやりたいほどである。このような光景は日本のあちこちに腐るほどある。愛想笑いという、私は格下であると高らかに宣言するような笑いもある。煩わしいこと天井知らず、私の怒りはマッハのごとく青天を貫き雷となって私の精神を打つ。失望である。また些細なことを指摘され傷つき、笑っている者もいる。傷ついているのに笑っているのだ、なんだお前は。人生において、今まで誰にも精神を蹂躙されず育ったお前の清らかそうで不純なプライドに唾を吐きたい。傲慢である、些細なことで金切り声になるような雑魚の申し子と同罪である。なんの罪か、よくぞその年まで生きてこれた罪だ。刑事罰ではない。しかし罪だ、罪であることに変わりない、罰なき罪だ。

このような未熟な者どもを是正する気はない。彼らの人生は是正せずとも豊かだろう。どこにでもありふれた豊かさを手にし、幸せを手に入れるだろう。それもまた真だ。決して振り返らないことだ。それだけが条件だ。生涯毒物にあたらず死ぬことができるだろう、本能的に聡いひとよ

 

 

日本現代クソ噺

 

アニメを観続けているとアニメ以外観たくないが、少し我慢してドキュメンタリーを観ればドキュメンタリー以外観たくなくなる。またアニメに関しても同じような毛色を望み、ドキュメンタリーにしろ同じような系統が観たい。これは多分、自分特有のものではなく、脳の構造の問題だろう。こういった現象を何と呼ぶのだろう。よく、自分の事柄を世間一般的なものとしたがるのは良くない兆候だと言われたりもしたが、それがイタズラに個性へ置き換わってしまった世の中においては、そう考える方が誠実な気さえする。本当は脳の構造は同じでも発露の仕方に千差万別あるのだろうから、個性と呼ぼうが最大公約的に構造のせいにしてもどちらでもいい気がする。わたしはだいたい他人にわたしを見出すことができるので、この世に起こりえるほとんどの犯罪であったり、偉業であったりが自分のことのように考えてしまう癖がある。そのことに覚えのある人もいるかもしれないし、まあもしかすると普遍の話なのかもしれないし、学校ないし家庭ないし、無自覚でもいいとは思うし。むしろ無自覚的なのか自覚的なのか、まあどちらでも感じてることは同じなのではないか、いや、違うだろう。

 

飽き性なわけだ。瞬発的な地球掘りで、深部へ到達することができるが、煮詰めたもんでもないわけだから結局すべてを忘れてしまう。毎度、過剰なインプットなわけだからリセットしてしまう方がいいだろう。それでも、忘れないことがある。印象だ。印象とは輪郭であり、抽象化されたものだ。わたしは抽象的な思考を操るのが得意で、アナロジーの指摘はべらぼうにうまい。その重ね方に差別も分別もないため、その分野のオタクの猛攻撃を受けるか、道徳的な問題まで担ぎ出されてしまう。わたしはそこにその人の限界が垣間見える気がする。その限度が人間性を定義しているのかもしれない、などと思うことが時折あって、わたしは概ね人間ではない気がするのだ、と極めて人間的な考えに至ることもある。

 

限度、限界、素晴らしいことではないか。限られた世界だからこそ、そこに花こそ見出せ、生き甲斐を感じ、充足感に溢れて高原のせいかつ。もはや無限の営みを見出せるだろう、行ってみせるだろう永久機関。わたしの場合は、限界がない。体力的な限界、今からプロ野球選手にはなれないだろう限界、プロサッカー選手になれないだろう限界。

 

たかが車で15分の距離を、バスで30分だろう距離をGoogleナビのクソは歩いて1時間50分だと教えてくれた。歩く気などなかったが、次のバスまで1時間ある、目的地に向かって歩いていけばいいだろうとわたしは歩いた。疲れればバス停で待って電車に乗ればいい。普段は車で一瞬で過ぎてしまうような何でもない道だ、この世には何でもない道以外に他の道があるとは思えないのだが、何か特別なものとは結局運の問題だといった自負も手伝って半ばクソを我慢しながらテクった。はじめ、大きなカタツムリに出会した。始まりとしては良い、いい風が三重の方から山を越えて吹いている。次は干からびたバナナの皮である。それから朽ちた女警官の看板、ああこれは個性だろう、私の。私が道中に見出した個性だろう、まあなんと個性とは石ころのようなものだろう!お前がもしこの道を歩けば、別のものに目を奪われたか、つまらなかったと唾を吐くか、歩くことを放棄してバスを待ったことだろう。私は1時間半歩いた。歩けば思考は整う、贅沢な時間だと思った、国道沿いの田舎道を時間も気にせず歩いている。ゴールありき、バスありき、そのような場合のみわたしは自由が与えられている気がするのだ。先行きの不安がない、呑気に車という乗り物による価値観の大転換について思考を巡らせ、カメラが登場してきたときの、当時の絵画シーン印象派だったり逆にカイユボットについてうろ覚えにつないで遊んで涙の産業革命か汗の産業革命なのか考えたりしたのだ。忘れかけていた便意がやってくるまで。ああ排泄欲なんて言葉があるらしい、汗を流すこと、おそらくは絵を描くこと、文章を書くこともそれに類するのだろう。血を抜くことも排泄欲にカウントされるらしい、要はまっさらになりたいと言うことだ。我々のように日々生きながらえれば、多少の労働で精神を病み、身体を凝らせるような弱き生物人間は絶えずゼロでありたいのだ。ああくそったれ、パンツにシミができる。俺は真のクソッタレになれる手前でコメリに出会しクソを捻った。爽やかに軽やかに。急に止まったものだから身体に熱がこもり不快な汗がわいた。不愉快だ。なぜ、俺はパンツの上にラップスカートなどを巻いて余計に暑くなっろうとしているのか、熱を閉じ込めようとしているのか、なぜ給食係のように頭に巻きつけたバンダナを汗が染みるといった理由で早々にバッグに閉まったのか。そもそもあれは汗止めみたいなものだろう。自熱で曇った90sサングラスの視界から狂った俺の姿を部分部分眺め、なぜサングラスをかけているのだろうと不思議に思った。サングラスをとれば脂染みている。クソがとクソをしながら言った。クソが、クソが、クソがクソがクソがクソがクソがクソが!クソが緩い、クソが!何回手にペーパー巻きつけんねん、クソが!ああクソが、緩い、こんなに歩いたのに神様、何様ですか?クソが!緩いんです。

 

トイレの個室から出れば汗がひいた。クソして洗ってない手でGoogleクソナビで目的地までの距離を測り直す。小刻みに10回目くらいだったろうか、あと20分かかるらしい。クソが!この馬糞が!遠いんじゃボケエとほたえ、ローソンの前で立ち止まれば後ろから車がやってきて俺の前に停車した。偶然にも磯田さん、目的地まで車で向かっている人だった。「乗っていきますか?」私は迷った、歩ききった気持ちで県民グラウンドへ乗り込みたいといった思いもあったが、流れに逆らうことを知らないMr.Childrenのような俺だから「ありがとうございます」と言って車に乗せてもらった。このいい加減さ、ああまさしく俺である、俺はどの道へ歩こうが俺的になる。お前もそうだろう、どの道へ行こうが、お前はお前的になる。なぜならお前はお前で俺は俺だからだ。

 

 

 

 

紫陽花のたばこ

 

 

怒りへの賛同

-便乗して怒ることへの疾しさのない、まるでそれが自己発生した雷のごとく鳴り響かせる者もある。私の怒りは私のものであり、あなたの怒りはあなたのものだ。重なっても風雨すら立たない-

 

森道から戻って数日経ち、身体もようやっと平衡を取り戻した。身に染みた暮らしへ戻るさなか、いささか不気味な影を感じつつ季節は梅雨入りした。今年の梅雨は例年より早いらしく、体感としてもそれは理解できた。日本語話者歴三十二年、5月の梅雨入りは何年ぶりだろう。今年の夏は長いだろうと口々に人々は手軽に口にした。軽やかにトイレットペーパーを回転させ手に巻きつける。カタカタカと心地よいいいリズム。

 

また当たり前のように眠るだろう。あじさいのたばこ。死んでしまってしばらく経つが、まだ墓にもいってないお前が金のない頃、紫陽花を刻んで吸ってたね。なぜ紫陽花なのか、訊くこともなかったけど。あれだけどうでもよかったものが思い出すほど遠くへ離れて行く。多くの過去は戻れるのに、お前のあじさいは沈んでいく。沈めば沈むほどかけがえのないようなふりをして俺の前に姿を現す。しみったれた、湿った、記憶を燃やすバーン。俺は眠たいのだと思う、今日願ったことの半分は叶わなかったが、叶った半分のおかげでその3倍やることが増えた。やるべきか、どこまでを?