INFP

よなよな占いなんぞに手を付けだした。社会に出てからというもの、自分の異常さを感じずにはいられず、まあ毎日しんどかったり楽しかったりするけど、自分は異常なんだなあと思うことばかりで、それが良いか悪いかは別にしてぼくは異常であるという事実が目の前に転がっている。

異常だ。今までもずっと異常ではあったが、生活に差し障りのあるものではなかったから放っておいたが、社会野に拘束されてから自分の異常性はとんでもないことに気付き始めた。関わる接点すらなかった人間と会話すると心がしんどくなる。ぼくの創造は日々怒りに満ちてからどこかへ埋まってしまった。

毎日なにかを作っていたのに、もう作らなくなってファッションばかり気にしている。

ぼくに本音で話せと強要する人たちがいる。本音とは何かを考える。なぜ本音など知りたい。人一人に幾つ本音があるのか考えたことはないのだろうか。ぼくは一人ではないし、いろんな方面からいろんな本音があってどれが本音かなんて最たるものなどない。そんな本音の中から最も同意を得られそうな、統合的な意見は黙れということである。おれもきみたちも、おれは話さない。話す気がない。それが暫定的な本音の共通項だ。

ぼくを一ミリも理解する必要はない。その辺でへばりついてる虫のように放っておけば良い。わざわざゴキブリにしなくても、蝉とかなんでもいいだろう、べつに。そういうのをいちいち火にくべて食おうとするのは好奇心旺盛な小学生みたいで大好きだ。

可能態

ぼくは今、ぼくの持っていた未来のなかのどの未来にいるのだろうか。ぼくはどの可能性を殺して、今に至るのだろうか。生まれ持ったときに持っていたであろう可能性をどれだけ殺してきたのか。先天性の話をしているのか、可能態とは先天性の話だ。でも、ぼくは先天性の話をしているわけじゃないのだ。もっと些細だ。殺された未来の話をしている。本当に些細なことから塵も積もれば山となるというか。ぼくは過去の塵の山だ。一面的にはそれは事実だから仕方ない。

叶わなかった、選べなかった、選ばなかった可能性というものが輝き出したりするもんだ。叶わなかったからなかったという話でもないんだな。そいつは、どっかで育ってるわけだから。ぼくはそれを少し垣間見ることができる。ただの妄想かもしれないが、涙が流れたりするもんだ。

出会い損ねてきた人生だ。おれの人生はいつだって狂ってる。まともなふりしたってまともであった試しなんてない。ぼくはまともじゃない。それに自覚的であるからまともなふりもできる。おれの人生は狂ってるのに、おれは本当に狂ったりしなかった。おれを狂わせるものはなかった。おれは一ミリも狂ったことはない。おれを狂わせるほど熱量のあったものはなかった。狂気は砂漠の夜のように溶けちまう。

おれはどこまでも観光気分が抜けない。おれにはない。おれはずっと考えている。今の素晴らしさ、ありえなさ、憤りについて。おれは考えているんだ。歩きながらも作っているときも、風呂へ入ってるときも、どの瞬間もどの瞬間もおれは考えるために何かを行なっている。考えてどうなるのかと聞く。どうにもならない。楽しいのだ。ぼくは考えるのが好きだ。盲滅法にぼくは永遠とコラージュをして、色んなことを考えている。作ることは考えることだ。何にせよ、ぼくは考えている

形と静止

形と静止

風が灰を攫うまでわたしはここにいる

風が灰を攫うまで煙草を咥えよう

ここにいる

凪が吹く 煙をさらう

口から 遠のかせる 煙

それについて語ろうとする 口は

なにかを話はじめる

日常に潜む崩壊の足音を

カートコバーンの指は弾く

カートコバーンは楽譜通りには弾けない 引かない

カート コバーンは日常にクラックが走っているのを知っている

カートコバーンは嘘はつけない

カートコバーンはバロウズの詩しか読めない

カートコバーンは気分屋

カートコバーンは魚座

カートコバーンは暗くはない

カートコバーンは死んだ

クラックがカートコバーンを蝕んだ

カートコバーンは嘘がつけない

カートコバーンは身体が弱かった

カートコバーンはギターを弾かない 弾けない

風が灰を攫うまでわたしはここにいる

風が灰を攫うまで煙草を吸い続けよう

ここにいる

口は黙った 夜が来た 目だけが冴える 冴える ぐうううううん 夜が聞こえる 冴える 音が収斂していく波 が たった一つの缶ビールに 溶けていく

たった一つの それはたった一つの

アルミ製 ある人にとっては貝殻 拾われる換金できるモノ

さあ 星よ煌めけ 真昼に群がるビーチのうえで 鐘が裂かれる 空のジッパーを剥がして あの世に挨拶をするために 蜘蛛を散らす マルタ 淘汰

さあ 目のある者は これ見よがし

さあ 耳のある者は これ見よがしに

さあ 脚のある者は これ見よがしに

わたしたちには輪郭がある それ以外は共通項に過ぎない 輪郭があればよい 我々は形である がゆえの 力動の唄

パールハーバー

‪未だ発酵していないか、噛み疲れたかしてそれは未だ‬ まるで昨日のことのように鮮度があるから新鮮味に欠けるのだ。

‪未だ出会わなくとも良い 未だ可能性がある まだ速い あるいは遅すぎる合流 再会が早すぎた あるいは早く別れすぎたか いずれにせよ それは未だ夏場の火照ったベンチのように 夜を越えて燃え上がる‬

‪傷ではない 飽きたわけだ 傷よりも裂けている それは長く 深い 川だ おれの頬に傷はない 裂け目に川が流れているのだ 退屈なディープリバー 俺の頰のうえで 世界が流れる 過去が映る今 おれのディープリバー 狂った地層 パールハーバー ラブホテルの名前‬

‪いつからか いいからと 金もないのにホテルびたり 三日に二日は外で寝て 三日に一日 ホテルに泊まる パールハーバー 裂け目にひっかかるあの愛撫 パールハーバー 変わらないのはインディアンの魂 獣じみた夜 人との淡いに揺れる そんな日々が日々流れる‬

ベケットと作品

ベケットは自分の作品に忠実な作家だったと聞く。彼の作品が無許可で上演されるようなことがあれば裁判も辞さなかったようだ。著作権だとかオリジナリティの権限とか、そういった類でベケットの作品に対する忠実さを表現するのは無理がある。ベケットには責任があった。

物語とはだれのものだろう。昨今、囁かれている、著作権の侵害ほど煩わしいテーマはない。物語を0から生み出すことは叶わぬ話だ。物語は何かしらの影響を受け、何かの続きを興じる。物語にオリジンなどはない。生まれた時から、ぼくらは物語と寄り添っている。

著作権とは大変烏滸がましい権利である。完全に物語が物語の続きであることを著者は忘れている。

頑張って書いた、だからなんだ。それを盗用された。盗用されたかどうかなんて誰がわかる。君の作品も盗用かどうかわからないじゃないか。

最近、芥川賞をとった作品にもそんな話が持ち上がっている。極めてどうでもいい話だ。自分の伝えた物語が他者のうえで変奏されることほど嬉しいことはないのでは、とぼくは思うのだが。

自分の書いた物語=自分のものであるいう認識は幻想だろう。人間なんて物語の媒体でしかないのだから。物語とは他者である。自分に孕んだ何者かの記憶である。それを伝えるのが作家の仕事なのではないのかとぼくは考えている。

ベケットはそのことを知っていた。そゆえ作品に忠実だった。作品を他者として認識していたからこそ、ベケットには作品を伝える責任が生まれた。物語を、いやこの話はもういいや。ほかに考えることがある。アディオス

種をまく人

種は実らないかもしれない

実らないこともあるのだ

実って欲しいとも望まない

勝手に実ればいいし、勝手にやめればいい

別に実っていう名前をつけたところで

生が実るとは限らない

肚のなかで死ぬこともあるだろう

車に轢かれて死ぬこともあるだろう

そもそも実という名を付けないこともあるだろう

ぐらぐらと揺れる橋を渡っている

落ちるかもしれない 落ちないかもしれない そもそも橋を渡っていないのかもしれない

もしかすると橋を揺すっているのかもしれない

もしかするとそんな橋ないのかもしれない

種は実るか それは必然か 必然のように見えるのは志向性のせいか

偶然か必然かなど現実においては関係がない ありふれた当たり前でない奇跡の石よ

種を蒔いた 収穫する気などはない

勝手に育てばいい

そもそも実るとはなにが実るのか

霜の花か 食えるものか 夢か

それよりも その花を見れるとでも

それよりももっと甘美なるものを

『おお友よ、このような音ではない!我々はもっと心地よい、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか』

歓喜の歌は否定から始まる。唐突な宣言とともにメロディがはちきれ、全能たる世界が顔を覗かせる。この世界は満ちている。あらゆる力が漲ってくる。身体から迸ったオーラが歓びへと炸裂する。まるでその様子は身体が血の花を咲かせるような光の破裂を思わせる。身体はただの輪郭であり、身体中には電光石火の光が駆け巡る。名指されたものから次第に爆ぜるように、次々に身体が爆ぜるのだ。

そもそも一つのメロディを奏でるために、何人もの人間が集まっているのだ。歌を奏でるためだけに集まる、まるで採光性の生き物みたいだ。何もクラシックだけじゃない、あらゆる所、あらゆる人々はそうやって歌を奏でている。

奏でるとは、メロディになるということはどういうことなのだろう。協奏曲というのは不思議なものだ。一つのメロディを奏でる、幾多のものが一つのメロディを構成する、このありえなさ。

間違いない。人間が今を超越するために歌は生まれた。

『そうだ、地上にただ一人だけでも

心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

そしてそれがどうしてもできなかった者は

この輪から泣く泣く立ち去るがよい』

この輪から立ち去った者もいる。笑いながら、苦し紛れに、泣きながら去った者たち。で、わたしは思うのだが、歓喜の歌は立ち去った者にしか届かないのではないのか。その者たち、その者たちこそ人間である。