音楽するためにちんぽを舐める人

証言1

音楽をするためにちんぽを舐める人がいるらしい。どうやらよくある話らしい。売れるためには何だってする。

回答1

虚栄だ。ちんぽを舐めようが舐めなかろうが、クソな音楽はクソなので、クソな音楽に集まる奴もクソなので、ちんぽを舐めようが舐めまいがクソはクソである。

証言2

演奏を聞いて頂いた方をパトロンにするために握手をしたりちんぽを舐めたり、おっぱいを揉んだりする人がいるらしい。

回答2

おっぱいを触ろうが、ちんこを吸おうが、音楽がクソであればクソなので関係がない。音楽で飯を勝手に食えばいい、ちんぽでも乳首でも添え物にして。

感想

音楽じゃなくて良くないか。働いて好きな時間に好きなことをすればいい。音楽で飯食ってるっていうよりも接待で生きてるような人間が芸術の話をするのはちゃんちゃら可笑しい。もっと言えば、自分はちんぽを吸っといて水商売を茶化すのもちゃんちゃら可笑しい。水商売のパトロンとあなたたちとでは、接客のレベルも相手との力関係も違う。あなたちは転がすよりも転がされている。

地域の有名人になって万歳しときなよ。みんなに感謝するよりガンジャでもやって良い音楽作ったらいいんちゃう。

ちんぽ吸っていい音楽つくれるなら吸えばいいと思う。何百本も吸ってちんぽ批評みたいな歌作ってニヒルにぶちかませたら最高にクールだと思う。

それに『ギター、一本で生きる』みたいな人生じゃなくても音楽がクールならそれでいいよ。仕事しないからいい歌ができるんじゃなくて、仕事しない方がいい歌できるから仕事しないだけじゃないのかな。詩が嘘かどうかなんて人の窺い知るところじゃないから何とも言えないしどうでもいいけど、歌にでる。

セルフ天国

人間は分かり合えない。気の合うとは言えど、分かり合えない。 天国へ行ったって分かり合えない奴とは分かり合えない。じゃあ、天国ってまんま地獄じゃんと思った人たちが地獄を作ったのではないか。

そうだ、きっと天国は地獄に違いない。なんであんな奴らと仲良くできるもんか。天国に社交辞令がないなら、なおのこと地獄そのものじゃないか。それとも社交辞令の1つや2つあるってか。じゃあそれは天国じゃないなあ、ただの社会だ。

天国は1つになれぬ生き物が1つになる場所だ。無理な相談だ。地獄と言ってもおかしくない。もしかすると天国は土のことなのかもしれない。土の上で死ねば、身体が土になるように。それはまあ分からない。

もし仮に天国が人の数だけ存在するとすれば、どうだろう。自分の頭に描いた良き人物(実在であれなんであれ)しか出てこないから、神様だってセルフだ。なんでもセルフだ。だから天国と言うのは独りよがりの世界なのかもしれない。もしも、自分以外の人間がその場所を見るようなことがあれば、誰かにとってそこは物足りないかもしれないし、地獄かもしれない。一貫して言えるのはセルフ天国には自分以外いないということだ。

もしも「死後は想像の世界への旅となるのだから、できる限り楽しいことを想像しましょう」ってのが宗教の掲げる天国だとしたら、教祖はいい奴に違いない。

ところであの世へ旅立つ。という表現はいかがなものか。あの世でさえも終わらせてくれないのだろうか。永遠の旅ゾッとするな。永住ってのもゾッとするな。終わりは茎の断面のようにさっぱり終わって欲しいと願うとともに少しの哀しさもある。あの世飽きましたわ、そろそろ生まれ変わるか、どうせなので記憶は消しておこう。おもんないからな。輪廻を考えた人間はそんなことでも考えてたのだろうか

左ききのエレンと右ききのソウシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

わかる。ある人間が左ききであったとき、未だ何も始まっていないのに敗北感を味わうことがある。あれは容姿が優れているとか、髪の毛が綺麗とか足が速いとか、そういった類の憧れから始まる敗北感ではない。A型がAB型に憧れるよりも、もっとも以前的な生後初めて気がつく、差異の痛感、いわば原初的な差異と言っても良い。

大人と子供、女と男、ぼくの場合だけかもしれないが、大した差異ではなかった。だが、地毛の色が違う、左ききである。というような差異に、当時のぼくはとても敏感だった。今となっては髪の色なんてどうでもよいし、髪の毛は染められる。でも、利き手だけはどうしようもない。何か特別な理由がない限り、ぼくは永遠に右手を利き手として生きていく。なんか悲しいけど、べつに悲しくともなんともないけど。

悲しい話、左利きを右利きに矯正する親は多い。手は右なのに足は左とか、書くときは右なのに投げるときは左とか。『ほんまは左ききやねん』と友人が言うたびに、実は貴族やねん的なかっこよさを感じつつも少しの哀しさを感じていた。

左足でドリブルしながら、右手で宿題をするようなイメージ。とても忙しいような気がした。休む暇あんのかよとかね。本人からすれば無意識でこなしている所業なのだが、矯正された所作が無意識レベルに浸透しているってのは何かこう悲しい話だ。正座とか体育座りとか、企業理念の唱和とかああゆうのとはちょっと違う。

話は少し逸れたけど、左ききのエレンについての感想を。「あいつ天才やねん」「そうか?そんなことなさそうやけどな」「あいつ、、左ききやねんで、、」みたいな話でした。

まあ左利きってのは天才の代名詞ですよね。右利きにとっては。左ききやもんって言われるだけで説得力増すような気がする。実際、そんなこと言われたら笑っちゃうけど、でも実際のところどうよと。笑ってるけど、ああやっぱり、そうなのか(納得)となりはしないか?

才能は優劣ではない、本当のところそれは間違ってはいないが、人間には経済圏がある。たまたま現社会と反応しただけに過ぎない才能を人は天才と呼ぶ。あえてたまたまと言った。だってさ、天の才だぜ。雷があたる確率くらいの出逢いじゃなきゃ才能は簡単に開いたりしないよ。異端でしかない才能が天才になるなんてあり得ないこと。素晴らしい!

金稼ぐのも才能だよ。お金が好きだったり、べらぼうにケチだったり優しかったり、人を支配したかったり、家族を養うためだったり、天才と呼ばれたかったり、自分で読んだり、努力したぜベイベー的なね。

また話が逸れた。エニウェイ左ききのエレンはタイトルがすごいよかった。

弱者

貧しい者の心はきれいであるという嘘っぱち。金持ちは心が汚いという嘘っぱち。貧しい者たちの最後尾に回る者こそが真に利他的であるという嘘っぱち。

弱者とは貧しい者のことなのだろうか。貧さで弱者かどうか決めるのは無理があるのではないか。ある苦しみ、ある抑圧にうなされる者が弱者と呼ばれる存在なのではないか。貧しかろうと富んでいようと嫌味な奴はいる。弱者はきっと、そいつらに抑圧された者たちのことだ。

ここから服の話になる。

貧しい者の多くはデザインが良いか悪いかを二の次にして、それと分かるブランドものを買おうとする。どれだけボロボロであれ、分かりやすいブランドを買う。金持ちにもそういうタイプの人間がいる。これを社会は成金と呼ぶだろう。

多くの若者は露骨にシュプリームと書かれた服を買う。逆に言えばシュプリームでもシュプリームと書かれていないシュプリームは人気がない。

一目でそれと分かるものを着ればコミュニケーションの可能性は広がる。多くのアジア人はロゴを買う習性がある。

企業はここに漬け込む。良いものなど彼らは求めていない。ロゴさえついとけばいいのだ。べつにいい生地を使う必要もない、職人一人一人の手仕事なんて誰も見てない。アップリケでロゴ付けたらみんな喜ぶのだ。偽物でなければ。

貧しい人間も金を持った人間もロゴチェイサーの若者も、みんな同類だ。嫌悪の対象だ。相手の生い立ちを聞いて同情することもないし、サクセスストーリーを聞いて拍手を打つ気は全くない。

多くの人間は貧しい。ぼくはその貧さがほんとうに嫌いである。こんな奴らに終生寄り添うくらいなら首をくくれと昔の自分なら言うだろうけど、今はなんとなくそれも違うような気がしている。

生に対する執着はないが(死にたくはない、終わらせたい欲望は常にあるが)、それだけで死を選べるかと言われれば無理がある。

で、そいつら全員を殺せるかと言われればやっぱり出来ないのだ。関わりたくないだけで。関わらずにどうやって生きりゃあいいのだろう。手に転がすのも転がされるのもうんざりだ。

通勤中、頭の中で初めて作った陶芸を思い浮かべていた。大きく口を開けた人間の舌が馬になっているオブジェである。20歳のぼくはどんなことを考えてそんな物体を作ったのだろうか。気をてらうつもりなどなかった。馬に翼をつけて耳から出してやろうとしていた。舌が馬になる。その時、ぼくは耳の内側から音を聞く。舌馬。舌が馬になる頃には、唇の尻が裂けて顎関節が外れ裂け、泣きながら舌馬を見ることなるのだろう。馬は舌をふさふさの尻尾にして風をかける。舌のないぼくはそれでも生きているのか。

脳さん

守口市駅で京阪は準急に連絡する。準急は直ぐに来ることもあれば、数分後に来ることもある。数分のあいだに、各駅停車は進む。準急を待たずに京橋で乗り換える。各駅停車は中之島行きが多いのだ。

先ほど守口市駅で連絡した準急淀屋橋行きを待つ。一分も経たず準急が迎えに来る。各停が一駅ずつ踏んづけてきた駅を、準急は振り向くことなどなく、平将門の首みたいに颯爽と京橋まですっ飛ばしてくる。だから速い。

守口市で準急に乗り換えたお友達と再会する。あの時待った人、行った人。待った人を待つ先立った人。不思議である。ともに別の時間を過ごしていたのに、線路の上では同じ時間を過ごしている。ダイヤル通り、つまり予定調和だと言われるからなお奇跡のように感じる。

奇跡は自明であればあるほど奇跡とは呼ばれない。

昨日、ぼくは錯乱した。扉に頭突きをかましたのはいつぶりだろう。なっ、錯乱していると言いながら、コンクリートに頭突きしないのは何でだろう。未だ殴れそうなところをキレながら探してるのはなんでだろう。といいながら判断を誤って金庫を蹴り飛ばした。まだまだ怒りが足りないのだろう。テンションゲージが振り切れないと、そういうことは出来ないのだろうか。少し思うことがある。

実は怒りも悲しみも理性がコントロールしているのではないか。錯乱も狂乱も、じつは理性がここならイケるぞっていう隙間を見つけて怒りや悲しみを合理化してるんじゃないか。これならキレることができる!ヤッフーーー!!!いけいけいけ!!という理性さんの掛け声は存在する。

ところで理性は存在しないのである。声をかけたり、抑止したりするのは欲望さんである。欲望さんを抑え込むのが理性なのではないか、そんなわけあるか。野生も理性も欲望さんである。桐谷美玲は可愛い。

おれは脳である。脳は空座の王である。手の欲望を拾うのも脳の仕事である。身体のあらゆる欲望を実行するよう命じるのが脳である。脳は器量良くなければいけない。脳は優しくなければいけない。身体が心地よくなる方へ舵を切るのが仕事であり、身体に自重を求めるのも脳である。レヴィ=ストロースの首長の原則は脳に求められる。

主体がないのなら脳の話などするな!とはいえ、これとそれとは脳と手ほど違う。

INFP

よなよな占いなんぞに手を付けだした。社会に出てからというもの、自分の異常さを感じずにはいられず、まあ毎日しんどかったり楽しかったりするけど、自分は異常なんだなあと思うことばかりで、それが良いか悪いかは別にしてぼくは異常であるという事実が目の前に転がっている。

異常だ。今までもずっと異常ではあったが、生活に差し障りのあるものではなかったから放っておいたが、社会野に拘束されてから自分の異常性はとんでもないことに気付き始めた。関わる接点すらなかった人間と会話すると心がしんどくなる。ぼくの創造は日々怒りに満ちてからどこかへ埋まってしまった。

毎日なにかを作っていたのに、もう作らなくなってファッションばかり気にしている。

ぼくに本音で話せと強要する人たちがいる。本音とは何かを考える。なぜ本音など知りたい。人一人に幾つ本音があるのか考えたことはないのだろうか。ぼくは一人ではないし、いろんな方面からいろんな本音があってどれが本音かなんて最たるものなどない。そんな本音の中から最も同意を得られそうな、統合的な意見は黙れということである。おれもきみたちも、おれは話さない。話す気がない。それが暫定的な本音の共通項だ。

ぼくを一ミリも理解する必要はない。その辺でへばりついてる虫のように放っておけば良い。わざわざゴキブリにしなくても、蝉とかなんでもいいだろう、べつに。そういうのをいちいち火にくべて食おうとするのは好奇心旺盛な小学生みたいで大好きだ。

可能態

ぼくは今、ぼくの持っていた未来のなかのどの未来にいるのだろうか。ぼくはどの可能性を殺して、今に至るのだろうか。生まれ持ったときに持っていたであろう可能性をどれだけ殺してきたのか。先天性の話をしているのか、可能態とは先天性の話だ。でも、ぼくは先天性の話をしているわけじゃないのだ。もっと些細だ。殺された未来の話をしている。本当に些細なことから塵も積もれば山となるというか。ぼくは過去の塵の山だ。一面的にはそれは事実だから仕方ない。

叶わなかった、選べなかった、選ばなかった可能性というものが輝き出したりするもんだ。叶わなかったからなかったという話でもないんだな。そいつは、どっかで育ってるわけだから。ぼくはそれを少し垣間見ることができる。ただの妄想かもしれないが、涙が流れたりするもんだ。

出会い損ねてきた人生だ。おれの人生はいつだって狂ってる。まともなふりしたってまともであった試しなんてない。ぼくはまともじゃない。それに自覚的であるからまともなふりもできる。おれの人生は狂ってるのに、おれは本当に狂ったりしなかった。おれを狂わせるものはなかった。おれは一ミリも狂ったことはない。おれを狂わせるほど熱量のあったものはなかった。狂気は砂漠の夜のように溶けちまう。

おれはどこまでも観光気分が抜けない。おれにはない。おれはずっと考えている。今の素晴らしさ、ありえなさ、憤りについて。おれは考えているんだ。歩きながらも作っているときも、風呂へ入ってるときも、どの瞬間もどの瞬間もおれは考えるために何かを行なっている。考えてどうなるのかと聞く。どうにもならない。楽しいのだ。ぼくは考えるのが好きだ。盲滅法にぼくは永遠とコラージュをして、色んなことを考えている。作ることは考えることだ。何にせよ、ぼくは考えている