土曜日の夜に死ぬ

土曜日はみんな浮かれている。楽しそうだ。電車も飛びっきりに混んでいる。酒飲んだおっさんやら学生の明るい声が聞こえる。なぜ人間はこうも社会的になれるのだろうか。群れをなす動物はたくさんいるが、人間ほど群れようとする生き物はいないだろう。蟻でさえたまに一匹でうろちょろしてる奴もいる。人間は人間の周りしかちょこまかしない。

賑やかな御堂筋線が不意に止まった。電車はなんばの駅についたところだった。車掌は西中島南方で人身事故あったと告げた。誰も動かずにいた。御堂筋線に乗らないとみんな帰れないのかもしれない。

ゲームを一通り終わらせてから席を立った。さっきよりも人口密度が高い。明日は日曜日だぜ、社会人どもよ。そこまでして帰らないといけない理由があるのか。

まあそれはいいとして、人身事故が多すぎる。その全てが自殺ではないかもしれないが、少なくはないはず。最期の場所に駅を選ぶなんて、ちょっとやそっとの恨みじゃない。なぜおまえらは平気な顔でいられるのか、迷惑やねんとかラッキーとか、そんな感想を言えるくらい余裕なのか。お前らが毎日乗ってる電車を死に場所に選んだ人間がいる、その事実についてどう考えてるの。彼らを殺した社会の円滑油になっといて、平気な顔して愚痴こぼせるのってなんでや。お前らの大好きな連帯責任じゃない?

聖なるかな

アレンギンズバーグの吠える脚注。

聖なるかな聖なるかな聖なるかなきみのあそこは聖なるかな

聖なるかな聖なるかな聖なるかな路上のホームレスは聖なるかな

吠える脚注が賛美歌のように聞こえる。あまりにも平等であまりにも優しい。あらゆる名詞たちを世界から捥いで空へ放つ。『聖なるかな』は掌だ。名詞が音になる美しさ、自由さと自由になりきれないから出る切なさと。音楽だ。

聖なるかな』は問いでもある。きみは聖なるかな。あの子は聖なるかな。祈りでもあるかもしれない。誰に聞いているのだろうか。ひつこいくらいのリフレインを繰りながら、誰に聞いているのだろう。

ギンズバーグを読んでいると切ない気持ちになるのはなぜだろう。

寝過ごす

12時間職場にいてやりたい業務が飛び込んできた業務に圧殺される。そういう日々を過ごしていると、一日、一ヶ月、一週間がべらぼうに早く、いつの間にか、ほらもうすぐ紅葉の季節だ。まだ蚊はブンブン飛んでいる。むかし、太宰治の小説で秋に飛ぶ蚊は哀蚊だと学んだが、どこが哀しくあるものか。夜はなにやら寒くもなく、蚊はこうなんというああいう独特な飛び方で耳周りをうろちょうするんだからたまったものではない。

秋か、確かにジャケットなんかを引っ張り出して羽織っている。この先、また手袋なんぞを新調しなきゃいけない。やってられるか、忌々しい。とか言いながら、まあ休みなんて取れるわけがないが、クリスマスがやってくる。アザップロングでも買ってあげたいな、マイヨーコに。エルメスってほんまに美しいんやで革も金具も。いい匂いがする。いい匂いって大事やで。

音楽するためにちんぽを舐める人

証言1

音楽をするためにちんぽを舐める人がいるらしい。どうやらよくある話らしい。売れるためには何だってする。

回答1

虚栄だ。ちんぽを舐めようが舐めなかろうが、クソな音楽はクソなので、クソな音楽に集まる奴もクソなので、ちんぽを舐めようが舐めまいがクソはクソである。

証言2

演奏を聞いて頂いた方をパトロンにするために握手をしたりちんぽを舐めたり、おっぱいを揉んだりする人がいるらしい。

回答2

おっぱいを触ろうが、ちんこを吸おうが、音楽がクソであればクソなので関係がない。音楽で飯を勝手に食えばいい、ちんぽでも乳首でも添え物にして。

感想

音楽じゃなくて良くないか。働いて好きな時間に好きなことをすればいい。音楽で飯食ってるっていうよりも接待で生きてるような人間が芸術の話をするのはちゃんちゃら可笑しい。もっと言えば、自分はちんぽを吸っといて水商売を茶化すのもちゃんちゃら可笑しい。水商売のパトロンとあなたたちとでは、接客のレベルも相手との力関係も違う。あなたちは転がすよりも転がされている。

地域の有名人になって万歳しときなよ。みんなに感謝するよりガンジャでもやって良い音楽作ったらいいんちゃう。

ちんぽ吸っていい音楽つくれるなら吸えばいいと思う。何百本も吸ってちんぽ批評みたいな歌作ってニヒルにぶちかませたら最高にクールだと思う。

それに『ギター、一本で生きる』みたいな人生じゃなくても音楽がクールならそれでいいよ。仕事しないからいい歌ができるんじゃなくて、仕事しない方がいい歌できるから仕事しないだけじゃないのかな。詩が嘘かどうかなんて人の窺い知るところじゃないから何とも言えないしどうでもいいけど、歌にでる。

セルフ天国

人間は分かり合えない。気の合うとは言えど、分かり合えない。 天国へ行ったって分かり合えない奴とは分かり合えない。じゃあ、天国ってまんま地獄じゃんと思った人たちが地獄を作ったのではないか。

そうだ、きっと天国は地獄に違いない。なんであんな奴らと仲良くできるもんか。天国に社交辞令がないなら、なおのこと地獄そのものじゃないか。それとも社交辞令の1つや2つあるってか。じゃあそれは天国じゃないなあ、ただの社会だ。

天国は1つになれぬ生き物が1つになる場所だ。無理な相談だ。地獄と言ってもおかしくない。もしかすると天国は土のことなのかもしれない。土の上で死ねば、身体が土になるように。それはまあ分からない。

もし仮に天国が人の数だけ存在するとすれば、どうだろう。自分の頭に描いた良き人物(実在であれなんであれ)しか出てこないから、神様だってセルフだ。なんでもセルフだ。だから天国と言うのは独りよがりの世界なのかもしれない。もしも、自分以外の人間がその場所を見るようなことがあれば、誰かにとってそこは物足りないかもしれないし、地獄かもしれない。一貫して言えるのはセルフ天国には自分以外いないということだ。

もしも「死後は想像の世界への旅となるのだから、できる限り楽しいことを想像しましょう」ってのが宗教の掲げる天国だとしたら、教祖はいい奴に違いない。

ところであの世へ旅立つ。という表現はいかがなものか。あの世でさえも終わらせてくれないのだろうか。永遠の旅ゾッとするな。永住ってのもゾッとするな。終わりは茎の断面のようにさっぱり終わって欲しいと願うとともに少しの哀しさもある。あの世飽きましたわ、そろそろ生まれ変わるか、どうせなので記憶は消しておこう。おもんないからな。輪廻を考えた人間はそんなことでも考えてたのだろうか

左ききのエレンと右ききのソウシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

わかる。ある人間が左ききであったとき、未だ何も始まっていないのに敗北感を味わうことがある。あれは容姿が優れているとか、髪の毛が綺麗とか足が速いとか、そういった類の憧れから始まる敗北感ではない。A型がAB型に憧れるよりも、もっとも以前的な生後初めて気がつく、差異の痛感、いわば原初的な差異と言っても良い。

大人と子供、女と男、ぼくの場合だけかもしれないが、大した差異ではなかった。だが、地毛の色が違う、左ききである。というような差異に、当時のぼくはとても敏感だった。今となっては髪の色なんてどうでもよいし、髪の毛は染められる。でも、利き手だけはどうしようもない。何か特別な理由がない限り、ぼくは永遠に右手を利き手として生きていく。なんか悲しいけど、べつに悲しくともなんともないけど。

悲しい話、左利きを右利きに矯正する親は多い。手は右なのに足は左とか、書くときは右なのに投げるときは左とか。『ほんまは左ききやねん』と友人が言うたびに、実は貴族やねん的なかっこよさを感じつつも少しの哀しさを感じていた。

左足でドリブルしながら、右手で宿題をするようなイメージ。とても忙しいような気がした。休む暇あんのかよとかね。本人からすれば無意識でこなしている所業なのだが、矯正された所作が無意識レベルに浸透しているってのは何かこう悲しい話だ。正座とか体育座りとか、企業理念の唱和とかああゆうのとはちょっと違う。

話は少し逸れたけど、左ききのエレンについての感想を。「あいつ天才やねん」「そうか?そんなことなさそうやけどな」「あいつ、、左ききやねんで、、」みたいな話でした。

まあ左利きってのは天才の代名詞ですよね。右利きにとっては。左ききやもんって言われるだけで説得力増すような気がする。実際、そんなこと言われたら笑っちゃうけど、でも実際のところどうよと。笑ってるけど、ああやっぱり、そうなのか(納得)となりはしないか?

才能は優劣ではない、本当のところそれは間違ってはいないが、人間には経済圏がある。たまたま現社会と反応しただけに過ぎない才能を人は天才と呼ぶ。あえてたまたまと言った。だってさ、天の才だぜ。雷があたる確率くらいの出逢いじゃなきゃ才能は簡単に開いたりしないよ。異端でしかない才能が天才になるなんてあり得ないこと。素晴らしい!

金稼ぐのも才能だよ。お金が好きだったり、べらぼうにケチだったり優しかったり、人を支配したかったり、家族を養うためだったり、天才と呼ばれたかったり、自分で読んだり、努力したぜベイベー的なね。

また話が逸れた。エニウェイ左ききのエレンはタイトルがすごいよかった。

弱者

貧しい者の心はきれいであるという嘘っぱち。金持ちは心が汚いという嘘っぱち。貧しい者たちの最後尾に回る者こそが真に利他的であるという嘘っぱち。

弱者とは貧しい者のことなのだろうか。貧さで弱者かどうか決めるのは無理があるのではないか。ある苦しみ、ある抑圧にうなされる者が弱者と呼ばれる存在なのではないか。貧しかろうと富んでいようと嫌味な奴はいる。弱者はきっと、そいつらに抑圧された者たちのことだ。

ここから服の話になる。

貧しい者の多くはデザインが良いか悪いかを二の次にして、それと分かるブランドものを買おうとする。どれだけボロボロであれ、分かりやすいブランドを買う。金持ちにもそういうタイプの人間がいる。これを社会は成金と呼ぶだろう。

多くの若者は露骨にシュプリームと書かれた服を買う。逆に言えばシュプリームでもシュプリームと書かれていないシュプリームは人気がない。

一目でそれと分かるものを着ればコミュニケーションの可能性は広がる。多くのアジア人はロゴを買う習性がある。

企業はここに漬け込む。良いものなど彼らは求めていない。ロゴさえついとけばいいのだ。べつにいい生地を使う必要もない、職人一人一人の手仕事なんて誰も見てない。アップリケでロゴ付けたらみんな喜ぶのだ。偽物でなければ。

貧しい人間も金を持った人間もロゴチェイサーの若者も、みんな同類だ。嫌悪の対象だ。相手の生い立ちを聞いて同情することもないし、サクセスストーリーを聞いて拍手を打つ気は全くない。

多くの人間は貧しい。ぼくはその貧さがほんとうに嫌いである。こんな奴らに終生寄り添うくらいなら首をくくれと昔の自分なら言うだろうけど、今はなんとなくそれも違うような気がしている。

生に対する執着はないが(死にたくはない、終わらせたい欲望は常にあるが)、それだけで死を選べるかと言われれば無理がある。

で、そいつら全員を殺せるかと言われればやっぱり出来ないのだ。関わりたくないだけで。関わらずにどうやって生きりゃあいいのだろう。手に転がすのも転がされるのもうんざりだ。

通勤中、頭の中で初めて作った陶芸を思い浮かべていた。大きく口を開けた人間の舌が馬になっているオブジェである。20歳のぼくはどんなことを考えてそんな物体を作ったのだろうか。気をてらうつもりなどなかった。馬に翼をつけて耳から出してやろうとしていた。舌が馬になる。その時、ぼくは耳の内側から音を聞く。舌馬。舌が馬になる頃には、唇の尻が裂けて顎関節が外れ裂け、泣きながら舌馬を見ることなるのだろう。馬は舌をふさふさの尻尾にして風をかける。舌のないぼくはそれでも生きているのか。