新開地の乱


新開地に行って来たf:id:soshisoshi:20170819025548j:plain

キキちゃん69点。おれ79点。

新開地の思い出終わり。 


神戸にて

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ん?


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これは、、ベビー用品専門店である。

メタファーなのだろうか。あまりに直接的な表現すぎて理解に苦しむ。つまり、子供の動きさながらマネキンに躍動感を与えようとした結果こうなった。


こどもの躍動にマリオネット。。なんとも風刺めいている。スコセッシ監督が一枚噛んでいるのではないか。この子が成長すれば夜の校舎の窓ガラスを壊して回るだろう。


冗談はさておき風刺であって欲しい。そんな風に見れるぼくがおかしいのだと反撃してくる人がいればこう答えるだろう。きみとは友達になれないと。ぼくは友達か通行人としか話さない。ワニワニパニックで敗北したキキちゃんでさえ、これはおかしいと言っていた。やっぱりおかしいのだ。話しても無駄なことがたくさんある。人類は分かり合えない。分かり合えなさを共有できるぬくもりしか感じあうことができない。


元町にもアメ村くらいいいところがあった。アメ村よりもいいかもしれない。デートとかしたら楽しいんじゃないか。と思ったが、そのときまさしくぼくはデート中だった。ぼくとキキちゃんのはデートというよりも冒険に近い。だからデートしてるという感覚よりもウェーイしてる。ドラゴン不在クエストである。ちなみにアメ村は特に好きなわけではない。むしろ普通であるし、むしろ嫌いなわけではない。


その日でない帰り途。稲川淳二の話をしようとしたらキキちゃんが誰それ?と言い始めた。だから、必死に物真似をした。

「ああ、やだなあ。なんだかゾクゾクするなあ。ゾクゾクするなあ。やだなあ、やだなあ。ふわあああ!

実はね」とやってみたが、やっぱり知らないらしい。


キキちゃんは動物が恐ろしくて近づけない。動物と目が合うと動けなくなる。ぼくはキキちゃんのこの状態を真理であると考えている。キキちゃんにとって動物はリアルすぎるものなのだ。なんの幻想も媒介することなく、目の前に生き物が現れる。共通の言語も持たず、ジェスチャーも理解できない、そのくせに目を持つ彼らが畏怖の対象以外の何者であろうか。まったくもって未知である。キキちゃんにせよ、遭遇された動物にせよ、互いに未知である。

ぼくはこの未知なる生物、キキちゃんと一日中いても退屈しない。ほんとうにどうでもいい稲川淳二の話をしながらゲラゲラ笑いあったりしてる。


さて新開地はほんとうにいいところである。行ってみるといい。お洒落狂いのセンターからすこしはみ出してみると、田舎の大将がどんっとおる。それが新開地。


剥製だらけの博物館

岸和田に行って来た。もう一度行ってみたい場所があったが、そういう場所こそ二度と行かないだろうこともあるだろう。生きている限りその可能性は潰えないだろうが、そんなことはどうでもいいか。

岸和田の自然資料博物館なんとかの剥製の群れにはビビった。


カバがいる。

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ウソである。トドである。


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サイである


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御定番の肉食系動物。剥製の職人も肉食獣の剥製はあんまりしたくないだろうな。表情つくるのめんどくさそう。


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寄せ集めのおもちゃ感。


他にも象やらカバやらアルマジロ、シマウマ、きわめつけはオオアリクイ。あ、あと鳥もいてる。あ、そうそう魚類の剥製もいてた。


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ライオンを手名付ける無垢な女の子


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タイから来た留学生


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おまえだれ?


ちなみにここには二度と来ることはないだろう。







他人の世界についてとやかく言えるほど皮膚の壁は薄くないぞ


ぼくは人を信じないし、基本的には話したくもない。友の輪が狭いと言われようが興味のない人と話す必要はまったくないように思う。

だから輪を広げようとし続けるSNSを具体化させたような人間の主張はつらく、そういう人に限ってお節介だから一度絡むとめんどくさい。

世界が狭いやら、内向的やら云々、たまに言われるが、他人の世界についてとやかく言えるほど皮膚の壁は薄くないぞ、ぼけ。

一人の人間を放っておくことがそんなに怖いことか。なにをおそれている。安心してくれ、きみとぼくは別の人間だ。

たとえ、ぼくがきみとは相容れない生き方を選んでいるとしても、それはきみには全く関係のないことであり、きみを否定しているわけではない。

ぼくはきみではない。これをしっかりと受け止めたほうがいい。ぼくときみは「ぼくら」に集約されて群れになることもないのだ。同じ時代、同じ年代、同じ国、そんなのは嘘っぱちだ。人間と人間はその程度の絆で群れになることなどないのだ。

ぼくときみは他人同士である。ぼくはこの境界を下手くそに爆破しようとする奴らが嫌いだ。

先日、動物と人間が分かり合えるというような話を聞いた。笑いが止まらなかった。分かり合えるわけないやろボケ。確かに分かり合えるような瞬間はある。しかしながら、それはただの思い違いである。ぼくはこれを奇跡と名付けている。分かり合えないものたちが分かり合ったような気持ちになる、これが奇跡でなければなんだろう。もちろん、皮肉でいってるわけじゃない。

奇跡は当たり前に起こるし、当たり前に起こらない。しかしながら、それをさも当たり前のように話すきみに問題を感じる。なぜか、それはきみが他の生物(人間も含める)の世界を自分のちゃちな掌で受け止めていて、しかもそれが漏れているにも関わらず、気づいていないからだ。

人間が人間と分かり合えるらしいのも、当たり前に起こらないし、当たり前に起こる。なんども言うけどぼくときみは別の生物なのだ。だからこそ、分かり合えるらしいのが奇跡なのだ。喜ばしいことなのだ。

すべての人間は分かり合えないだろう。すべての人間と分かり合う必要もないだろう。だからこそ倫理が稼働するのではないか。

違いを軽視するような独善的な奴らに倫理があるとは思えない。皮膚の壁は倫理を要請する。わかるか、ぼくの血ときみの血がひとつの心臓によって稼働するすることはありえず、身体が繋がることはありえない。前にはは皮膚の壁がはだかっている。実は皮膚の壁と皮膚の壁が擦れ合う度に、人間はぬくもり以上に繋がることのできない、切なさを感じている。

ぼくときみとは他人同士だ。繋がりあうことは到底ないけど、そう錯覚することもある。それをぼくは奇跡と呼んでいる。それがぼくにとっては絆であり、友であり、恋人である。彼らはいわずもがな各々、他人である。

人間以外の視覚的情報をともするならば、中身の見えない瓶と瓶がくっついている様子。つまり、恋人同士がデコとデコをくっつけあっている様子。口から吐く風は懐かしく異国である。





ゴッドファーザー

街行く一匹の子猫でさえ打ち殴りたいような気持ちと未だ日のないときに吹く黒く淀みのない風がかしらを流れる。身体が緩やかに痒みを帯び、熱はなく、我慢と暴発の狭間を這う。一日について顧みれば長く、あらゆる憤りが一片に間歇的に涌いてくる。それはもはや一日が積年の恨みで重くなり、きみの神すら拒絶しきみともども葬りたいような気持ちすらよぎる。なぜ赦すのか、この怨念は見えない亡霊の如くつきまとうくせに烈火のように白昼燃え続けないのだろうか。殺したいほどの恨みとはなにか、どんなにテンパーをルーズしようともおれがコームダウンするのを知っている。ゴッドファーザーは知っている。マイケルは裏切りを赦さない。謝罪を受けても裏切者は絶対に殺す。殺す代わりの譲歩を提案しながらも、裏切りの確証を得れば赦したふりをして殺す。ゴッドファーザーの世界に謝罪はない。心の迷いであろうが、謀反を起こした時点で初めから殺すという選択肢しかないのだ。感情に振り回されることなく、政治的な判断の下、期を待って殺す。そのあいだにどんな埋め合わせがあろうと、決断が揺らぐことはない。ゴッドファーザーは怖い映画だ。そして、とんでもなく美しい映画でもある。作中では死はとんでもなく軽く、とんでもなく重い。なんの躊躇もなく、あっさりと人が殺されるにも関わらず。一発の銃声が響いても、周りの景色は変化することなく無関心に流れる。その無関心が孤独な死の輪郭を浮かび上がらせる。背丈より高く、金色に染まった穂と黒く艶のある高級車。ドカーン。立ちしょんから戻ったクレメンザは、後部座席にいる、裏切者を始末した部下を従え、車を離れる。奥さんに頼まれたケーキを持って。金色の穂と死人だけが取り残された車。穂と車の配置が絶妙だった。車のやや右寄りの配置が黒々とした死の孤独を表していたように思う。穂が風に揺れていた。喉が詰まるほど美しかった。

さざなみのように人が回収されていく

日を跨いだらしい。颯爽と年をまた一つとった。てんで一年の長さがよくわからない。昨日でさえ、はるか昔に感じられる。最近はレヴィナスを読んでいる。白川静を読んでいる。宮沢賢治を読んでいる。はい、自己紹介終わり。26歳の一年目は夜更かしから始まるみたい。

一ヶ月ぶりのブログ更新になるらしいが辞めたのではないかと勘繰っていたので、あることに驚き、見てみると文章の稚拙さに驚く。たった一ヶ月されど一ヶ月。何ヶ月にせよ過ぎ去ったものは稚拙である。編集を加えなければなお。

そう、近頃はプールで泳いでいる。身体がムキムキに、つまりムキってきている。世界中の女がおれを待っているとキキちゃんの前で言うと、キキちゃんは笑わず真剣に受け取る。

彼女の純真さは幼児のそれに劣らない。そんな彼女がノートを書き始めたので万年筆を贈った。セーラーの商品名を言っても仕方がないから言わないけど、軸がアイボリー、クリップ、ペン先が金のやつだ。14金なので柔らかくなるはず。

キキちゃんは結構いい文章を書くので、そのうち心もペン先みたいに軽くなるだろう。軽いのがいいのか重いのがいいのかわからないけど、天国も地獄もないこの世で十字架なんか担いでんと楽しい方へ歩んで言って欲しい。

ジャパンは労働やら忍耐やらが神話的なまでに高尚である。みんな十字架を担ぎ過ぎている。筋トレ程度で良くないか。すでにみんなムキムキやぞ。だからレジ中に座っていてもいいのだ。日本の接客は寒気がする。なにがおもてなしだ、このろくでなしども。あんなもん奴隷制とかわらんやないかい。日本の接客は天使みたいな人しかできないよ。されていても、していても居心地悪いの。不自然やねん、あれ。たとえば、させて頂きます。ってつまり客個人に対することばじゃのうてな、個人を客に還元しちゃって個を全体化させたうえで発してる言葉遣い。つまりさせて頂きますは個人間におけるコミュニケーションですらなく、むしろそれを徹底的に見えないようにする、個人を超えた社会御中。べつにその言葉遣いだけが腹立たしいわけでもないけどや。

社会御中以前に人間対人間なんだからさ、それぞれの尊厳くらい守ろうぜ。金渡してますやん!言うて無視できるものじゃないよ、尊厳は。人権じゃないぞ。法によって守られるべきものでもないぞ。法以前に人の顔がある。その顔は全体のさざめきには決して回収されないし、回収してはいけない。手を触ってみましょうよ。生身の人間ですよ。

レヴィナスを師と仰ぐ、ある学者がトークイベント中に全く人の話を聞こうとしない登壇者にぶちギレたことがあったらしい。登壇者はつまらなかったのだろう、すぐさま舞台を降りて壇上を後にした。後日、その学者は謝ったらしいがその登壇者はこう切り返した。

切腹ものですよ」

閑話休題

今日で20連勤を終えた。疲れた。9月からはしばらくニートになってしまう。身体の動かし内に貯えたいが、浪費癖がなおらない。寝るか、おやすみ

けりとか使いたい

時が鉛のように重い。一日がどうしようもなく軽く、どうしようもなく重い。短針と長針の間に挟まれて、秒針の音せせこましく心臓のように脈打ちぬ。時は鳩時計のごとく、丁度を祝い、また狂ったように忘れけり。古文は苦手だった。高校一年生のおりに挫折して以来、ずっと欠点で高校を卒業した今でも古典の単位はない。さっと今から読めるものはないかと書棚を探ってみれば熊楠に遭遇。 一年ほど前に買ったまま眠っていた。熊楠の文はあまりよく知らない。しらないけれど、菌について論じていたかとおもえば、猥談に走り、近隣住民の悪口まで自在に変化していく文らしい。生々しさがねじれこんだような文。熊楠の文はそう評される。

ずっと眠い。眠いが起きている。なにかするべきことがあるとでもおもっているのだろう。ぼうっとしているわけではないし、かといって熱中しているわけでもないのだがうっすらと膜が張っている。膜について考えてみるだけ気持ち悪い。

朝起きる。汗疱に病みつつある手を見ていかなる装飾も無駄であることを知る。なんとまあ無気力なのだろうか。洋服、この沢山あり、これからも増えるだろう洋服。

脱水も水に染みたる洋服が皺を伸ばされ日に晒される

汗疱に病みつつある手仰ぎ見て吊られたシャツの虚しき装飾

最近は短歌にはまっている。

(汗疱になったことはありますか。あれはすごくかゆいんです。なにかときれいな手と褒められること山の如しなぼくにとっては手が無様になっていくのは耐え難い。女性には手フェチが多い。手が関係の象徴器官だからだろう。手は誰かとつながるし、表情も豊かだ。グザヴィエ ドランも手の表し方に凝っている。手を染める。足を洗う。つまり手は年輪である。関係を断つのが足で、関係を作るのは手である)

わたしの祖先はパパランギ

わたしの祖先はパパランギ

おまえの祖先は何者か

絵の具が何重にも重なって土のような色になっていた。絵の中央部にチョークの落書きのような顔が書かれいたような気もするし、輪郭だけが浮かんでいたような気もする。しっかりと憶えていそうなのはわたしの祖先はパパランギという一文。あれが針金のようような機嫌の悪さで絵に刻まれていた。

わたしの祖先はパパランギ

おまえの祖先は何者か

ニュージランドのマオリは神々の土地を奪われた、いや、奪われたのではなく、それはだれの土地でもなかった。闖入者はだれの土地でもない土地を区画に分けた。マオリの神々はばらばらになった。ばらばらの身体のうえで彼らは戦った。その時にはパパもランギもおもいでになっていた。パパもランギもいなかった。彼らとカヌーの間に深い断絶が走った。わたしたちは何者か。

わたしの祖先はパパランギ

おまえの祖先は何者か

筆を執ったのは怒りだった。悲しみだった。闖入者に対してのそれと己に対しての。何者か、パパランギの子孫だ。モコを見ろ。どこの者だかわかるはず。モコさえ今はマオリの証でしかない。

マオリとは普通の人という意味だった。この作品をはじめて見たとき、わたしの揺らぎを見た。わたしが何者かという揺らぎ、わたしとおまえのあいだの揺らぎ、わたしとおれとのあいだの揺らぎ、それらの揺らぎがロウソク台の上に灯った人魂のようにあいだを揺らぎ続ける。消えることはないだろう。忘れさられるよりさきに。

何者かどうかさえどうでもいい世界までの、果てしない道のり。わたしはそれを越えたろうか。この肉体に抱かれたままで。それはどれほどまでに可能なのだろうか。奇妙なカップリングだ今は