それは仕方ない


車に乗れる気がしない。車に乗るのは好きである。乗れば乗るほど好きになるだろう。そんな気がする。ただ、交通マナーとやらが分からない。後方よし、ウィンカー、左よし、右よし。とか安全確認が苦手である。それにもまして教えてもらうのが苦手である。


よくもまあみんなは、ぬけぬけと車に乗ってやがる。車のほとんどは勘みたいなものじゃないか。交通ルールをみんなが守っている。守らない者もいる。ルールは奇跡的にルールとして認められている。


みんな天才じゃないか。車に乗れるなんて。ぼくがもしミッションのまま教習を受けていたとしたら、すでに二泊延泊が決定していただろう。はじまって、二日目にして大手をかけていた。


たとえば、車の免許が欲しいとぼくより望んでいる人ははたくさんいるだろうし、望んでいない人はもっとたくさんいるだろう。


その内の数パーセントはぼくのように実技が全然ダメなのだ。信じられるか、自分がその数パーセントなんて。


「普通にしてれば卒業できます。ほんとにたまにかなり時間かかる人もいらっしゃいますが」ぼくは薄々勘づいていたが、そのときは笑えた。お伽話のように聞こえたのも確かだったから。


数パーセントである。ぼくはだいたい何でもできない。普通に人ができることを普通にできた試しがない。見た目はだいたい何でもできそうなのに、初めてのことはだいたい何もでもできない。だから、みんなびっくりする。


ものすごく時間がかかる。閃きみたいなものを感じるまでにすごく時間が要る。どうやら一つ不明瞭な点があると、そこから虫が湧いてきてぼくを暗くする。


閃いたあと、と、閃くまえのぼくは別人に見えるだろう。ただ、その時期が本当に来るのか、来ないのか、いつも分からない。


たまにスパッと辞めたりもする。粘り強くやることもある。どちらを選んでも自分の弱さを感じる。


「自転車に乗ったことある?」と教官から言われたときにぼくは笑ってしまった。あ、やっぱり数パーセントやったんかと。脱輪したとき、久しぶりと教官は漏らしていた。慣れだよクソ野郎。

自転車のテクニックでおれに勝てる奴はいない。


真面目過ぎるのだろう。考え過ぎるのだろう。気にしすぎるのだろう。ぼくの性格はいつもこんな感じだ。こういう人間を愚かな人間と言う。


知らない街を自転車に乗って彷徨う。後方よし、右よし、左よし。しっかりと後方のあとはウィンカーをつけるように右手を動かす。でも、リズムが狂う。こんな簡単なことでも一瞬魔がさしたり、急に始めたりするとダメになる。ぐちゃぐちゃになる。初めてレジを触った時のことを思い出していた。

しばらく自転車をこいで、大きな赤い橋を渡った。振り向くと、四万十川が見えた。犬を連れてるおっさんと目が合った。犬が吠えた。夕日は見えなかったが、空が赤かった。すらすらっと切り立った雲に紅やら赤やら黄やらが差していた。

こんなに近くに見えるのに四万十川の河口は10キロ先だった。

コンビニで弁当を買ってベンチに座って食った。爆弾おにぎりをほうばったら泣けてきた。車の免許ごときをストレートに取れない自分の不甲斐なさ。


世間一般のことを気にしないとか言いながら何かとぼくは気にしたりする。世間一般的に普通にしていたら卒業できるらしい教習所はぼくにとっては鬼門だった。普通にできることでできないことが多すぎる。

どれだけ社会不適合なんだろうか。社会不適合なりに誇れるものがあればいい、社会と別に生きれるくらいに。ぼくには未だない。この先にあるかもわからない。こう言う人間を愚かな人間と言う。









おれと坂口恭平

このサイ、はっきりと言ったほうがいい。ぼくは躁鬱ではない。数年前にそう思うこともあったが、さいきん強くそうではないと考えている。ぼくは飽き性で過敏な、いわば、ただの子供である。情緒不安定である。持続しないハイとロウを間欠的に営み、その振れ幅に疲れる。ただそれだけの気分屋である。

躁鬱かもしれないと考えた理由は坂口恭平の影響が大きかったのかもしれない。むかしから坂口恭平の言葉が自分の書いたものではないか、と勘違いする日々があった。坂口恭平の文に自分を重ねるというよりも、これは俺が書いたものだ、なんで坂口恭平の書いたものなんだと強く感じることが多々あり、今でも多々ある。でも、実際、他人同士なので、単純な考えではあるけど、おれは躁鬱かと考えるようになった。

むかしから坂口恭平に似ていると言われることが多々あった。話し方とテンションが似ていると。ぼく自身も文問わず、坂口恭平の写真やら見ていると変な感じがする。他人と隔てられたこの肉体とか、分かり合えるはずがない、とか普段から言ってるのにおかしな話だ。しかしながら、それ以上にわからないところもあるから、あながち矛盾はしていないだろう。

で、坂口恭平の文を自分が書いたように思うことについてだが、坂口恭平の文を読んで自分の書いたものを見返すとぜんぜん似ていない。ぼくのものは悲壮感に満ちて、アドレナリンにあふれているときもあるけど、実際物悲しく、明るいものがほとんどないし、つねに迷いのなかにあるような、霧の中で、それが霧なのかどうかさえ分からないし、何も信じきれないようなものが多い。

あれだけ似ているなとか思っている坂口恭平がぼくの作品には存在しない。でも、ぼくは書いたような気分がしている。おかしな気がする。もしかしておれとシンクロでもしているのか、とか超人的なことも考え出す始末である。

ぼくは懐疑する。坂口恭平は迷わない。似ているのは嘘をつかないこと、それだけだ。では、ウソをつかない ものすべてがおれに似ているのかというとそうではない。

ベケットツェランもアイヴァスもマルケスも全然似ていないし、似ていると思ったことはない。宮沢賢治安吾はまた例外である。1ヶ月前の出来事だけど、ペソアに関しては似ていると思った時期があり、アレンギンズバーグもそう感じていたときもあった。でも、坂口恭平はその一線を超えている。

思うに同じ時代に生きているからだろうか。坂口恭平の文は懐かしさがあって、ハイでもロウでも鬱蒼と茂る文の群生であることもあって。単純に坂口恭平が好きなのだろう。嫉妬もあるのだろうか。生きている人間の文は、その人が生きている限り読みにくい。

今まで、どうすればハイを持続できるのかと考えたことがなかった。ハイになっているときは書くのが追いつかないので、歌うか話すくらいしかできないし、個人のものというよりも誘発が多い。だからロウの部分を大切にしてきた。

だから、ロウのノリでハイな文を書くことが多かった。一度、考えてみよう。ハイの状態について。最近はキキちゃんと話すときだけハイである。これからの仕事について考えるのもロウを主に置いて考えるからだ。

坂口恭平は静かなるハイだし、スーパーハイにもなれる。そして、ウツにはしばらくなっていないと聞く。ぼくは躁鬱じゃないけど、坂口恭平の生き方を参考に実践してみようと思う。

無意味に対する賞賛に対する苦言


先日、ブコウスキーの探偵小説、パルプを買った。解説やらが二つ付いていて、その内の一つがあまりに不快だったので千切ってしまった。この本から意味を見出すことは無意味であるという一文がその破ったページに書かれてあった。


『おれは死という名の淑女と宇宙人の間に挟まれている』というような一文がパルプのなかで語られていて、ぼくはひどく感動したのだ。こんなにも簡単な言葉回しでこんなことが言えるのかと。パルプにはブコウスキーの顔が浮かび上がっている。


どんな文章であっても、落書きであってもそれが作者の顔を浮き彫りにする。と、それが稚拙であれ優秀であれ、ぼくは思っている。作者はその意図を認めないかもしれないが、意図するかせざるかは問題ではない。確実にそのときの気分やら躍動、作者が飼っているものが提示されていると思う。


それを無意味であるとルサンチに決め込んで投げ捨てるようなやり方は思考の放棄であると考えている。思考とは考えること、感じることの間で生まれるものである。


また、読み手が勝手に解釈することも読書の醍醐味だろうし、作者の意図を考えることと同じくらい大切なことであり、むしろ乱暴で勝手な解釈が新しい解釈を生むと思っている。


それなのに解説側の人間が無意味であると、言い捨てることに疑問を抱く。賞賛のつもりか何だか知らないが、正直ダサいし、そんな奴が本を読む資格があるのか。もちろん本を読む資格なんてないから、本を読む覚悟があるのかと置き換えても遜色ない。


意味を求めるのは人間の性だ。ただの数字の配列も人間にとっては意味に変換される。それに対置して無意味という概念がもてはやされたが、そんなもの遥か昔の概念である。全てのものは無意味だろう。無意味で美しいだろう。そして、そう考えることさえ無意味だろう。無意味であるから価値が見出されるのだろう。無意味の概念が否定したことは、意味の鋳型に豊穣な可能性を封じ込めるなということだとぼくは思う。


意味の鋳型とは、既存の解釈である。オイディプス的な解釈である。全てを家庭の問題として解決しようとしたらしいオイディプス的な解釈である。逆に言えばオイディプスオイディプス的な解釈から解き放つことが無意味という概念が叩きつけられた理由なのではないか。


ぼくは無意味に対する賞賛を嫌う。逃げるな。闘え。逃げることと闘うことは似ているだろう。しかしながら、この場合はこの二つは全く相容れない違いである。


ありきたりで真新しい退屈と闘え。ブコウスキーは小説を書いた。


アンチクライマックスに対する苦言

アンチクライマックス文学は終わりのない文学ではない。アンチクライマックスはオチのない文学なのであって、結末がないわけではない。 

ある文学者によれば、その文学はナチスに対する抗議、ハイデガーに対する闘いであるらしい。要は終末論、自分が生きている間に世界が終わりを迎えてほしいと考える人間たちに対して、アンチクライマックス文学は永遠に続く世界=オチのない世界を持ってする。ハイデガーの一部の根底にはどうせ死ぬんだからという考えがあったらしい。

死に対して永遠を対置した文学がアンチクライマックス文学だと簡単に言ってしまえるのかもしれない。


例えば、世界を破滅させようとする悪の軍団から世界を守ろうとするヒーローもの。大衆映画やアニメは主人公のボルテージと世界の命運が完全に一致する。だから、こう言うことも出来る。そういう設定にしなければ観客を集めることができないのだと。大衆は世界が終わることを望んではおらず、最終的にはヒーローが世界を救うことを望んでいると言うこともできるだろう。しかしながら、映画の世界が何者かによって救われなければいけないような危機的状況でなければ、観客は集まらないのだ。完全に不感症である。世界の命運をかけた争いでないと興奮しないのだから、不感症である。


アンチクライマックスはこういった不感症者たちの望む作品に対して退屈やだらだらを通して大衆的な起承転結を拒絶しようとした。


というのが、アンチクライマックス文学の社会的な文脈になるのかもしれない。個人的にはアンチクライマックス文学というネーミングがあんまり気に食わない。なぜか、あらゆる作品をアンチクライマックス文学で包括するのは無理だろう。社会的な文脈以上に個人的で生活にそくした文学であるからだ。それについて述べたいが今は無理なのでやめておく。


さて、アンチクライマックス文学はオチのない文学として称揚されてきたのは間違いない事実であろう。この場合はオチのないとは終わりのないという意味である。で、ある勘違いをした人たちは終わりのない文学が素晴らしいものであると今でも考えたりしているらしい。彼らを勘違いをした人たちと指しているから察しがつくと思うが、終わりのない文学が素晴らしいなんてとんだ勘違いだと、ぼくは強く思う。


物語は終わるのだ。終わってないように見えているかもしれないが、その物語は終わっている。作者がそこで筆を止めたのだから終わっている。それがたとえ、大衆的なオチがないものであったとしても終わっているのだ。オチ=終わりではない。


オチがあろうがなかろうが、物語は終わるということである。オチはあってもなくてもどっちでもいい。

どんぐりとドジョウ

どんぐりとドジョウ

どんぐりころころ どんぶらこ‬ ‪
おいけにはまって さあたいへん
‬ドジョウがでてきて こんちにちは‬ ‪
ぼっちゃん、いっしょにあそびましょ‬ ‪

どんぐりころころ よろこんで‬ ‪
しばらくいっしょにあそんだが‬ ‪
やっぱりおやまがこいしいと‬ ‪
ないてはドジョウをこまらせた‬ ‪

初、どんぐりは山にいた。しかしながら、木から落ちてころころ転がってどんぶらこと水辺へ落ちてしまった。どんぐりは二度と地上へ戻ることはできない。
そもそも、どんぐりは地上に落ちる定めにある。未熟であろうが美しかろうが、茶色だろうとこげ茶であろうとマロンであろうと、虫に食われていようが。全てのどんぐりは実った瞬間から地上へ落ちる定めにある。どんぐりは落ちて初めて夢を見るだろう。いくら故郷が恋しいかろうと、どんぐりは戻れないだろう。‬ ‪

人間でも同じである。もう一度母の胎内へ戻るなんて不可能なのだ。しかしながら、人間はあらゆる手段を以って胎還りを再現し、新たな生を授かろうとする。ある時は目隠しで御堂を巡って清らかになったり、あるときは一人で森林を彷徨って成人したりする。修行とは胎還りなのだろうか。‬ ‪
故郷を喪失して、戻れないことを知り、新たに創造しようとすること。‬ ‪これが生物の定めだろう。生物の三段階。修行とは故郷の喪失をしっかり知ること。そして、そこに還ることが不可能であることを知ることである。‬ ‪

どんぐりに話を戻す。どんぐりは沼に沈んだ。発芽条件などは分からないが、高確率で発芽しないだろう。どんぐりは故郷の夢を見る。尽きぬ泪を浮かべながら、沼の底から空を見上げる。救われない。‬

颱風とどんぐり

‪颱風とどんぐり‬

‪本がまともに開けなくなってしばらく経つ。書くことも特になくなってしばらく経つ。まるまると退屈は肥えていく。隙間に挟まる退屈に負けてタバコを吸う癖がある。いたずらに増えていく吸い殻の数が、敗北の記録である。‬

‪灰皿を綺麗にしてもいつの間にか底が見えなくなる。こんもりした吸い殻を見ると驚くことがある。爪が伸びていることに気づいて驚くような感覚、飽き飽きとしてしまうような感覚。‬

‪颱風が来ている。明日の朝には過ぎている。颱風は一夜かけて大阪を過ぎる。宵のお供は行きずりの恋人、颱風18号。‬

‪雨は未だ降っていないのだろうか。外から激しく心地よい風が吹いている。ベランダに出ることにした。それが今、ぼくは颱風を浴びている。‬

‪雨は未だ降っていない。隣の家からはコトコト、かちゃちゃ、家事の音が聞こえる。洗濯機が小便を漏らしている。迎えのベランダで刺青の入ったおやっさんが寒風摩擦をしてからピシャッと扉を閉めた。‬

‪颱風が過ぎれば太陽も多少は陰気に傾くのだろうか。いずれは暮れるものと知りながら未だに暑い日差しに嫌気が差していた昨今からすれば、この心地よい肌寒さは美しい。‬

‪なんとなくレザーを羽織ってみた。ズボンは履いていない。別に寒くなくなった。真冬だったらきっと寒いに違いない。しかしながら、ぼくからすれば来るはずの冬が本当に来るのか、本当に来ていたのかと疑問に思う。‬

‪こんなに暑い日があって、ある日にはすごく冷える冬が来る。徐々に季節は秋めき、やがて冬めく。ぼくはそれを想像できないのだ。所詮、妄想の産物なのだ。季節の機微が過ぎればあったのかどうかさえ不確かで、万年箪笥の奥に押し込まれた靴下のようにどこかへ消えてしまう。‬

‪植物は紅葉を迎えるものは迎え、迎えないものは枯れ、または緑であり続ける。そして、変温動物は冬眠に入るか死に、恒温動物は入るものもいれば入らないものもいて、死ぬ。‬

‪ジャンキーは夏に毛皮を来て毛布にくるまり焚き火をする者もいる。常夏の世界に住む者もいれば、少しの春と夏を迎えたあと、吹雪によって世界から隔離される世界に住む者もいる。‬

‪そんな世界たちがあることは想像できる。しかしながら、今、ぼくの住んでいる世界が冬になることを信じきれないぼくがいる。‬

‪季節は勝手に過ぎるだろう。秋にはみんなコーデュロイを履くだろうよ。トレンチコートは着ないだろうな。今年は畝の太いコーデュロイが欲しいなあなんて、別に思っていないし、買う予定もない。‬

‪秋が好きである。なんだかいい感じなのだ、秋は。肌寒いけどコートは未だいらない。どんぐりが落ちている。そういえば、おととい、どんぐりを拾った。上品なツヤのあるどんぐりである。とてもいい気になった。‬

‪そうか。わかったぞ。都会にはどんぐり以外拾うものがないから秋が好きなのかもしれない。‬

‪続く‬