むかしのハロウィンは酷かった

「火あぶりにされたサンタクロース」

という本がある。レヴィ=ストロース中沢新一が著者である。四年前に読んだのであんまり覚えていないけど、ハロウィンとクリスマスについて考察した本なのだが、その本によれば昔のハロウィンはとんでもないものだった。

内容についてざっくり説明するとハロウィンで死者招来、クリスマスでプレゼント渡して死者にお引き取り願うというようなもの。この死者というのが、子どもにあたる。もうちょっと折り入って説明すると、レヴィ=ストロース俺変換によれば、死者を子どもにみたて、もてなし、来年の豊穣を祈願するといった宗教行事がハロウィン=クリスマスにあたる。うろ覚えだが、こんな感じだったはず。日本人なら染み深いよね、死者をもてなし豊穣を祈る行事。

ちなみにハロウィンはキリスト教の行事ではない。またクリスマスにプレゼントを与えるというのもキリスト教の行事ではない。彼らからすればこれは異教徒の文化である。接続詞の使い方に困るが、事実として、1951年フランスのある教会がサンタクロース人形を火あぶりにする。民衆の前で。それが発端となり大論争が起きたらしく、ついにレヴィ=ストロースが口を開く。

分析は、キリスト教以前の信仰とキリスト教キリスト教後の資本主義と資本主義以前からのキリスト教といった二項対立で話が展開されていく。

中沢新一が何書いてたか忘れたけど、レヴィ=ストロースはこんな感じで話を進めていったはず。

サンタさんが火あぶりにされたのも衝撃的な事実だったが、それよりも驚かされたのはハロウィンを機に爆発する子どもたちの悪童っぷりである。

子どもといっても青年も死者には含まれる。今でこそトリックオアトリートとか言うて可愛いものだけど、むかしは普通に女性を襲うわ、リンチするわで、とにかく悪行を尽くして街を荒廃させた。死傷者もいたような。それでも、大人たちは抵抗できなかった。なぜかと言えば、死者をもてなすことが社会の目的であるからだ。彼らにしてみれば、今、ここで思う存分暴れさせなければ、死者をもてなせなかったということになる。そうなれば、来年の豊穣は約束されない。

今では理解できない信心深さかもしれないが、彼らは自然界と人間界のバランスを保とうとする思考があった。そこを媒介するのが子供=死者である。実際にはイコールノットだ。イコールノットだから意味がある。死者を目で確認することなんてできない。だからこそ、死者を演じさせ、目で確認できるようにする。元来、子どもは現代における子どもとは別の意味を持つ。

掻い摘んで言えば、子どもとは小人であった。小人は大人=社会とは別の社会に属していると考えられ、小人=自然の領域に属する者として認識されていた。つまり、子どもは社会の成員ではなく、成人の儀式を終えてやっと大人に仲間入りする。どこの国のどこの部族でも成人式はある。なので、成人の儀を済ませていない者は子どもである。

気になる人はアリエスの『子どもの誕生』を参照してください。けっこう、ざっくり言ってます。小さい人は半分社会、半分自然です。立ち位置でいうと、カエルみたいなもん。一言にすれば両義的な存在だった。

話が脱線したので戻す。まあ、むかしのハロウィンは酷かったらしい。今や法外の行為がパブリックに堂々と行われることはないが、かつては法外の他者を迎え入れることが当たり前だった。子どもを孕んでも子どもは他者だから、よっぽどのことがない限り、生んだだろう。セックスもすごく軽かっただろうし、夜這いきたーみたいな感じだったのかもしれない。当時の思考と今の思考はそれだけ違う。

で、そろそろ、現行ハロウィンに対するパッシングでも言い出すのだろうと考えていらっしゃる人もいるかもしれないが、パッシングなんてできない。ゴミちゃんと捨てろよとかくらいだろう。

今のハロウィンをむかしのハロウィンはこうだったという論調でバッシングすることは不可能だし、とんでもなくナンセンスだ。今とむかし(どれだけ前かもしらない)は営む社会が異なる。つまり思考が違う。それに輸入文化だ

現在のハロウィンは良い意味でクラブ的である。仮装すれば、みんな友達。インスタ映え最高。場として人と人を繋げる場へと発展している。クラブはパブリックな発露の場ではないし。もちろん、友達欲しいやつらが集まるイベントだと思う人もいるだろう。そうかもしれない。でも、街を歩いていてコスプレしてる人がいるとおもしろいじゃないか。悪口もでるだろうが、恋もするかもしれない。

いいなあ、ぼくもしたことがある。ありふれたコスプレだったけど、おっぱいが凄かった。すらっと足が伸びていて、唇が真っ赤で。顔がとにかくめちゃくちゃ可愛かった。ただの恋である。こんなお姉さんと写真を撮るチャンスなんてないと思う。ナンパでも成功しないだろう人と写真が撮れるハロウィン。夢がある。ぼくはなぜか、パンツ一枚でスパンコールをクビに巻いていた。スベっても優しい。ああキキちゃんにキレられそう。

キキちゃんへ


冬のはじまりを知りました

ほんのり秋に染まった葉が

おちるのをみて


やってくるのかと思っていれば

やっぱりきましたね

冬ですか。


冬です。一夜ずつ、一夜ずつ

いずれピークを迎えます

また、わたしたちは知らない間に

超えてしまうのでしょう冬を


超えてしまうといえど

春の曙光をのぞむほど、

それは永く果てしなさそうです

想像です


秋はもうすぐ終わるでしょう

多少の秋をそのまま残して

ここにある秋も

されど、また忘れ物です

もぎ取ってきました、冬の空から

あなたと付き合った季節から

一年経とうとしています。




ある写真への応答

ここに一枚の写真がある。わたしは撮影の現場に立ち会った。撮影者、わたしを含めて四人がその場にいた。

コスモスの群生、飛び火、ブルーライト、夜、駐車場。

夜に放たれるブルーライトは心を騒めかせる。自殺や犯罪の抑止を謳われることもあるが、あれは心を和ませるというよりは暗くするのに一役買っているのだろう。自殺や犯罪すら思いつかないほど暗く。

灯を浴びたコスモスの群生は怪しげで美しく、物悲しかった。一角を象るように生えた群れから飛び火したコスモスもあった。群れであって、群れでないコスモスを照らすブルーライト

シャッター音が鳴る。風景が画面に収まり、数日経って一枚の写真が投稿される。写真を見て驚いた。そして、一つの言葉が過って腑に落ちた。

後日、その投稿にコメントを残した。あのときに、決して重ならないわたしたちを包んでいたものは幽玄であると。

すると、返信があった。

ぼくらは少し重なったのではないかと。

彼は最大公約数を射抜く作家だと感じた。彼の特筆すべき能力の一つであると思う。ここに重なると重ならない相反するものが二人のコメントから生まれている。わたしは重なるの代わりに包むという言葉を使っている。わたしのイメージとしては一人の人間は輪である。そして、この輪と輪は重ならない。だが、彼の場合、輪と輪は重なるのだ。大きな違いである。わたしは輪と輪は重ならないと考え、光はわれわれを包むと形容し、それが幽玄であると明かした。

それからしばらく経って、ある哲学者同士の対話を聞いた。そこでは輪は楕円として考えることが奨励されていた。輪は一つの中心からではなく、二つの中心から成り、その形は楕円である。とのこと。

一つの中心は自分であり、もう一つの中心は他者以前の他者である。特筆すべきなのは他者とは言い切れないということである。どういうことだろうか。楕円として一つの輪に二つの中心が収まる。収まっていいのだろうか。そもそもそれは二つでなければならないのだろうか。

わたしにとって輪は限度である。つまり重なってはいけないものである。輪とは違いである。それが重なってしまうということは違が同に還元されてしまうということである。しかしながら、どうだろう。

これは同への還元なのだろうか。人それぞれの間に社会が炸裂しているとすれば、同が別のところへ行っても同になるわけではない。つまり、この同はある人間同士の間だけで結ばれる縁なのではないか。

そもそも同が同であることなどあり得ないのではないか。それがあり得てしまう世の中だから恐怖や気持ち悪さを感じてしまうのではないか。クラブミュージックが同の音楽としてあるような社会が気持ち悪いのは、同を無理やり強制されるからではないか。そして、それを無理やりだと感じる自分がいるからではないか。同を縁という言葉に置き換えると、そのひどい様があらわになる。関係のない縁を押し付けられる感覚とそれを押し付けて感じてしまう感覚。

まとめよう。輪と輪は重なるとは言い切れないが、重なったような感覚に陥ることがある。それが縁である。本来、縁は他の人間同士の間では共有されない。

ここで、また自分の言動とぶつかる羽目になる。最大公約数を射抜くとはどいうことなのだろう。それを述べるときにまず、太陽というイメージが過った。わたしたちを包む最低限度の灯としての太陽。このイメージと対立するのは星の灯である。満月の日にこの灯は消える。そして、月のない夜、満開を迎える。太陽を射抜くことが最大公約数なのだろうか。いや、違う。灯から降る光子を射抜くことだ。その射抜かれた光子こそわたしたち四人の最大公約数としてある縁である。と、わたしは今、思っている。で、それをわたしは幽玄と呼んだわけであるが、あくまでわたしの話である。つまりは縁をもってしても、われわれは別の印象を抱いている。

そもそもわたしはブルーライトを鎮静作用をもたらすものと考え、鎮静作用の最たる効力は人の心を暗くすることだと考えていた。人によってそれも変わるだろうし、ブルーライトに主を置かないものもいるだろう。

決して重ならないという言い方は正しいが、それを誇張するとぼくらの間に生まれたものを表現することができなくなるどころか、初めからそんなものは存在しないというような主張に直結し、硬直する。分かり合えなさを梃子に人と人との違いを還元してしまわないように設定するのも大事だが、それを根拠に関係の不可能性にまで言及するのはあまりに現実離れしていて、相当に危ない。

目下労働


働かなくてはいけない。働いて宝くじを買ってと。宝くじが当たったら辞める。で、何をするか。何もしない。何もせずに生きたいのだが、家賃やら保険やら。生活に追われる。なぜ生活に追われなければいけないのか。困る。払う必要はない。払わない生き方もある。そのエネルギーがない。お湯から上がる気がない。お湯の中で、どうすればいいのか考えている。


働く、その概念を開発することはできない。ぼくには。物書きでは食えないだろう。食うために書けないだろう。食事や排泄と同じように、ぼくは書く。くだらないブログも。閃光のような詩も。また孔を拡げる詩も。詩は垢みたいものなのだろうか。生活の香りがする。


小説を読む。どうしてこんなに書けるのだろうと思う。素晴らしい小説とは別の小説の話をしている。あんなくだらない時代小説を長々と書き続けられる作家はすごい。ともあれ、それを読む人もすごい。あの間に一体なにが生まれているのだろう。


300ページなんてものすごい熱量だ。普通は書けない。それをあんな文で埋め尽くすなんて信じられない。ちょうどブログみたいな感じだろうか。いや、思念を散らして書くなんて誰でもできるのだ。一つの物語を織っているのだ、本の場合は。どんな本であれ。

まあどうでもいいか。


頑張らずに生きたいものだ。人に何かを求めない。人を変えようとも思わない。社会は人それぞれ炸裂している。ぼくも変わろうと思わない。勝手に変わっていく人について何も思わない。


いまある生活がおかしなものであれ、ぼくはここにいる。らしい。それについてとやかく言わないし、言いたい。ここにいながらその世界を助長したくない。これはわがままなのだろうか。

いま、ここからではダメなのだろうか。染まるしかないのだろうか。染まる?言葉がおかしいか。一般的な良識の揺りかごに揺られながら、なるべくお前らと絶縁しながら進む方法がないか。おまえ、そう、おまえだ。昆虫殺しのクソ野郎。ブラジルから回ってきた肉が国産よりも安いのに違和感のないおまえたちと。おれはおまえたちの世界にいながら、どうやっておまえたちと一緒に暮らしながら絶縁していくか。おれはここにいたいのだ、小声で。で、おれはおまえらが嫌いなのだ、大声で。おれは暮らすここに、おまえらと同じように。別の仕方で。


おれには翼がある。車の免許のことだ。ここから離れた自分の声が聞こえる、何通りか。目下きまった、労働のお通りだ。修行という言葉が嫌いだが、いまは修行中だ。




バッドボーイ純子

趣味がローラーブレードだったなおきは先生の葬式にもローラーブレードを履いてきた。かと思えば、けんちゃんは竹馬で、早苗は一輪車。金持ちだったポポランスキーはやっぱりロールスロイス(笑)

キャロット先生もたいへんなクラスメイトを持ったものだ。キャロット先生はよくよしこちゃんのお母さんと墓で密会してたっけ。そこをたまたまキックボード野球をしていたヘーゼル君に発見。ヘーゼル君は風呂屋の息子で番台さんだったから、近所の悪ガキに言いふらして街は大変なことになった。

そのとき、ヘーゼル君は35歳、うちらは10歳。ヘーゼル君はキックベースカトリックでいつも本気になっていた。ケンイチとは喧嘩仲間みたいなもので、ケンイチが顔面セーフなんて言い出したときには、いきなり蝉を食べ出して海老の味がするなんて言うからみんなおかしくて、ヘーゼル君を異教徒とみなしていたのだった。

十二月のチャーチのとき、フランスから届いたサンタクロースの焼き討ち映像を見てテンションのあがったうちらはベースボールカトリックのときにポポランスキーロールスロイスをスライスしてイタリアのシチリアでお世話になったらしいコリオーネへ送ったのだ。

そしたらマッチョサランダムがかんかん(笑)プレイボールのことをプレイボーイなんて言うから、これだからシチリアの奴はってハドソンズベイがチャーリーチャップリンみたいなこと言い出してそっから大カトリック勃発。みんな死ぬ気で竹箒持ってきて噂のクディッチ。楽にしてやるよと西武の菊池雄星

ワッツソースティンキーアバウリッ?とかアレックスが言い出して、ジミーズとまたしっちゃかめっちゃかの大カトリック。でも、最後はシンギンインザレイン歌いながらドゥビドゥーってわけ。笑

このときもなおきはローラーブレードでブランコ乗ったりわりと自由なふりしながら、ヤマザキパンの春のパン祭りについてあつく語ってた。バッドボーイのロンT来て、靴は俊足だったバッドボーイ純子は武満徹のことをたけちみつるって呼んでた。他にもレッドホットチキンとか言ってたな。

うちらは徒党を組んでたから、集合するときは梅田かもしくは三田集合。基本的には軽車両で現地集合。ハルキはまだ新生児だっからおかんにおぶられレディゴー。たまにハルキとニケで来るシュウゴ。息切れするおかんを見てみんな非難轟々。

交通ルールなんて無視しまくりだから早苗は一輪車でトラック煽るわ、トモキは十字架担いでバイパス超えて来るわ、でもう大変。そんなことばっかで、キャロット先生も鬱になったみたい。小学校六年生なのに未だに馬に干し草やる授業で単位取れないやつばっかりだったから、校長からの圧力が半端なかったみたい。結局、バッドボーイ純子が干し草とキャロット先生間違えて馬に食わせたみたいでキャロット先生ジ・エンド。今に至る、佐々木中みたいなかんじ。

訃報を聞いたうちらは次の日から、もっと真面目にやろうって話あった。純子はバッドボーイの服は全て捨てるって言ってたし、キャリーパミュパミュはヤスタカから卒業するって、アレックスももうタイツ履かないって、ヘーゼル君はメジャーリーグでプレーしたいって。マイケルも親父の敵討ちはやめるって、シチリアにもいかないって。早苗はラップやめるって。ヨシキもドラム壊さないって。なおきは春のパン祭りにはもう参加しないって。

で、おれ思ったんだけど、なおきに関してはおまえの治すところそこじゃねえよ!と思った。でも、なおき泣きながらローラーブレード乗ってたし言えなかった。案の定、葬式の日はみんな、いつものままだった。おれがご焼香するときにはご焼香がなくなってた。みんなバカだから食っちまったのかもしれない。だから、おれはマジ一休ばりのトンチをきかせて、十字架を切った。

帰り道、早苗は一輪車に跨って般若心経を唱えながら帰っていった。バッドボーイ純子はこの世界の教育制度について問題を感じたらしい。今夜はキャロット先生と同じところで眠りたいなんて言うもんだから、そっとしておいたけど。

まあ、みんな変わらないな。またいつか、蹴鞠しようなあ、拓哉。

生きるらしい


生きるだけで金がかかると祖母に言ったとき、『その通りや!』と祖母は言った。祖母が二回出て来た。どうにか一行にまとめれないだろうか。

生きるだけで金がかかると言ったとき、『その通りや!』と祖母が言った。よし。そんな祖母がアルツハイマーにかかってしまった。兼ねてから、徐々にではあるが進行していたアルツハイマー脳梗塞を機に一気にアクティベートしたらしい。

祖母は別の世界にもいるのだろう。一言一言大切に言葉を堕ろす。今に向かって過去やら想像やらが入り乱れるのか、超現実な話を始める。

担当医師であったはずの男が突然、北野高校出身になったかと思えば、その男は親不孝ものでタイプライターばかりいじっているのだと言う。それを見た両親の気持ちを考えたとき、祖母は胸が痛くなるのだそうだ。で、言ってやったらしい。

「あんたなア、折角頑張って北野高校の10人の中に選ばれたのに。何してんのン。お母ハンもきっと喜ばれたろうと思うで」

きっと同一人物の話ではない。その医師が喚起させたのが北野高校出身のタイプライターで親不孝者の男なのだ。そもそも祖母にとって同一人物かどうかは問題なのではないのだろう。

自由な語り部に見える。しかし、とんでもない重力を感じる。過去なのか、それすら想像なのか。どちらとも断言できないだろう。祖母は想像によって医師とタイプライターを結び合せ、タイプライターは恐らく想像によって結びつけられた過去の断片なのだろうから。祖母は今、語っている。だから、今、起こっていることを話しているのだ。

祖母は優しい人だ。あんなベランベぇな顔見たことがなかった。アルツハイマーが進行すると暴力的になると言われる。実際、ぼくもその現場を見ているが、どうだろう。あのとき、ぼくらはぼくらの現実を押し付けすぎて除け者にしたから、あの人は暴力に走ったのではないか。狂人のように扱われれば、誰だってそうなるんじゃないか。理性は平衡機のうえの水とは反対へ流れる。理性は他者と自分とをフラットに保とうとする働きなのではないか。アルツハイマー患者に理性がないなんて可笑しな話ではないか。必ずしも理性は社会に従わないだろう。

自分の見ている現実が頭ごなしに否定されれば誰でも怒る。ぼくらの社会が必要以上に要求するコミュニケーションは人間と人間の隔たりでさえ簡単に忘れさせようとする。


生きるには金がいる。祖母はその通り!と教えてくれた。生きるには金がいる。金を稼ぐ必要がある。考えるだけで嫌になる。で、本業とは何か、と考える。別にないのだ。ただ生きるだけがこんなにも難しい世界だ。いっそヤフオクで自分の一日でも売ってみるか。売れたらいいけどな。日当一万円でな。暇なうちにやってみるか。

それはさておき、リサイクルショップにでも就職しようかと思っている。これ以上いらないものを増やす仕事はしたくないし、古物好きやし。独立するとすれば、ブリコラージュ的な店をメインにするしかない。流通経路も、流通確保の方法も知れるしいいんじゃないかな。



免許合宿へ行く普通じゃない人へ


免許合宿、辛いですね。ここまで自分は何もできないのかと思う日々が続きます。みんなが普通に取れるはずの免許でさえ自分は取れないのだと考えてしまうと、自分だけポツンとはみ出ているような気がして心が暗くなります。


『普通は取れる免許』と言われる普通免許ですが、普通じゃなかったらどうなんねんとお困りの方もたくさんると思います。よっぽどの情熱、みんな取ってるからという後ろ盾がない人は特に苦しむと思います。例外にもれず、ぼくもそういう人間なので苦労しました。でも、取りました。なので普通じゃない人用に合宿の攻略方法を紹介したいと思います。


①全体的な工程を頭に入れる。

合宿の期間は約二週間あります。初めの一週間で仮免まで。残りの一週間で卒検まで。というのが大体の工程です。


②仮免まで(学科)

仮免は実技試験と筆記試験どちらも受からなくてはいけません。ほとんどの合宿では、MUSASHIというウェブ試験が導入されています。その試験に最低一回は合格しなければ仮免は受けられません。


MUSASHIに関して

一日に二度受験することが可能かと思いますので、毎日受けましょう。MUSASHIの問題数は6題しかないので、三日間立て続けに受けると、四日目には一周して、初日と同じ問題を受験することができます。間違えた箇所をしっかりとチェックし、復習すれば簡単に取れるので、なるべく毎日受けるようにした方が後々楽になります。ただ初めの方は何が何だか分からないかと思いますので慣れるためと割り切って受けてください。


勉強方法

卒検にしても筆記試験にしても要領は同じです。間違えたところを見直す。これに尽きます。初めの方は未だ習っていない学科が沢山あるので、難しく感じるでしょう。ただ習っていない学科があるからと言って、勉強を後回しにするのは後々辛くなります。

ただ初めの三日間は学科で習ったところを復習し、わからないところを徹底的に噛み砕いていきます。短期間勝負なので予習もできれば言うことなしです。予習と言っても教科書を軽く読むだけでいいと思います。習う前に読む、習ってから復習する。最低、ひとつの教科に三回ずつ時間を費やすので覚えやすくなっています。イメージとしては土を耕して、種を蒔き、育てるという感じでしょうか。


教科書と一緒に配布される模擬テスト集は問題数も限られているので、四日目以降の使用が効果的だと思います。四日目になると学科もほとんど終わっている状態になっているので、こんなん知らんという問題がかなり減っていると思います。知らない問題ばかり解いていると気分がめげますし、勘で模擬を解いてしまう羽目になるのので限りのあるテキストが勿体ない。


模擬テストでの勉強

ここでのポイントは間違ったところだけではなく、迷った所もしっかりとチェックを入れて教本を読み直すことです。運は信用しないでください。少しでも迷ったらチェックして、間違ったところと同じように見直す。習っていないところであってもアバウトでいいので見直してみましょう。


座学についてはこれを二週間続けます。勉強時間はだいたい二時間くらいでしょうか。二週間ずっとこんな生活するのもしんどいと思うので根を詰め過ぎず適度に力を抜きましょう。


③仮免まで(実技)

個人的には勉強よりもこれが大変でした。座学はやれば伸びますし、やる時間も自分で自由に決められますが、実技は仮免段階だと一日二時間しか受講できません。その二時間の間に運転のエッセンスを抽出できるわけがない。運転は慣れだと言われますが、慣れには個人差があります。ぼくは三日目にして既に実技を二つ落としました。挙げ句の果てには自転車に乗ったことある?と教官に聞かれるレベルでした。


まず念頭に

車の法定速度は60kmです。馬もだいたいこれくらいのスピードで走るようですが、考えてみてください。馬に乗れる人間は当時で言えばビップです。お偉いさんです。一般庶民は俄然徒歩です。車が普及してまだ百年も経っていないんです。そんな簡単にスピードに慣れるわけがありません。汽車にしろ人間とスピードの歴史は始まったばかりですし、そんなに親和性もない。今でこそ当たり前にスピードのある乗り物に当たり前に乗ってますが、まだ出来立てほやほやの文明です。それに生身の人間が速度60kmで走れるわけがない。なので法定速度と言えども、運転となれば未知の世界に変貌します。

何が言いたいかと言うと、簡単にスピード慣れする方がおかしいのではないかということ。みたいな感じで開き直ってください。


動作を身体に叩き込む

運転するにあたって右よし左よし後方よし等の声出し確認は必須事項です。

また仮免段階での操縦は発進、一時停止、進路変更、右折、左折に集約され、そのそれぞれに行うべき確認があります。

これらを実技中にさっと覚えてしまう人もいれば、何かしなければいけないという強迫観念に頭を真っ白にさせてしまう人もいます。


ぼくは後者でした。なので、ぼくは自転車をレンタルして練習しました。指示キーのタイミング、戻すタイミング、確認などを手順通りにシュミレーションしました。やってくうちに情けなくなってくるのですが、そのうち出来るようになるので堪えてやってみてください。


コースの覚え方

方向音痴なのでとても苦労しました。ぼくのところは初級コース、上級コースと二つとも覚えなくてはいけなかったので大変でした。同じサーキットをぐるぐる回るので何周回っているのかわからなくなります。ただ覚えようとする内に基礎能力がついて、覚えられるようになります。コース全てを頭に入れる必要はありませんが、全て覚える気で覚えた方が実技の際に役立ちます。


予めコースのマップが配布されると思いますので、サーキットだけ簡単に写します。簡単に写したあと、コースを書きます。すると、曲がる必要ないやんここと思っていたところがなぜここで曲がらなくてはいけないのか理解できるようになります。例えば一週目で障害物を避けた後に、S時クランクに行かなくてはいけないからここを右折する必要があるといった風に、謎だらけだった地図が明快になっていきます。

ぼくは10回くらい書いたと思います。2、3回コースを写して、何もみずにコースを書く。コースを覚えてきたら先ほどの確認事項等をおさらいしながらペンを進めました。


④仮免取得後

仮免取得後は、特にコースを覚える必要はありませんので、格段に仮免より楽になります。学科の方は以前と変わらないペースで大丈夫です。


総括すると、免許は仮免までがとくに大変です。卒検前も苦痛ではありますが仮免よりまだマシです。これはすごく個人的な意見になりますが、免許を取得したところで、免許に対する熱い思いがなければ充実感も何も生まれないとおもいます。苦労した人ほど取得したときの達成感はひとしおであるとかよく言われますけど、ぼくは別に嬉しくとも何ともありませんでした。まあそれも人によるでしょう。ぼくは合宿を経験したことによって、普通とは何か考えさせられるキッカケになりました。