なぜファッションをするのか

やる気は鮮魚だ。ぼくのやる気は川魚、いいや、深海魚並みと言ってもよい。数分後に腐ることなど当たり前で、ましてや夜と朝なんて、いつもその振れ幅に慄き白ける。朝は喪に服することが日課だったのに、今や喪中してる暇がない。歯を磨かない内に仕事へ出る。ろくでもない。腐った身体で朝を迎える。これを死に体と呼ぶ。

一つのことができない。できる方がおかしいと思うし変態だと思う。同一性、恒常性に憧れる変温動物などいないので、本当は飽き性でいいのだろう。人間というのは本当に人間以外のものになりたがる。訳もないのに、鳥に憧れたり、猫に憧れたり、まあ色々と別のものになりたがるのである。もちろん戻れるという、前提があるからこその願いだ。それが故の幅。人間は何者にでもなろうとするし実際になれてしまう。人間だけが人間以外のものになることを望み、実際に『それ』になる。人間は特質的にそういう生き物だ。『それ』から人間に戻ることもまた、人間のダイナミズムである。『なる-戻る』はセットだ。例えば、狼男がずっと狼男だったら、狼男は人間ではなく狼だ。容姿の問題を別にすれば狼と変わらない。狼男は狼と人間を反復できる、するしかないのである。そこに治療だったり、狼か人間かという問いは無駄。狼男は反復している。

狼男だけに限らず人間は常に反復している。容姿に反映されないから自覚はないだろうが。人間には治しえぬものがある。

なぜおれはファッションをするのか、アパレル業界にいるわけでもなし、それを志しているわけでもなし、おれの一部では不穏におもっている者もいる。おれの一部ではなぜか分かっている者もいる。『一部』だけでは語弊があるので訂正する。おれの固有名詞のなかでドロドロに溶けているかのような人間たちのことだ。

で、おれたちは今日、なぜおれがファッションをするのか話あい、しっかりと言葉として認識することができた。おれは反復しているのだ。誰かの目を好ましく思ったことは一度もなく、誰かに褒められて嬉しいと思うことなどない。おれはたぶん、山に一人で住んでもファッションをする。いや、流石にそこで反復してる場合じゃないか、そのときゃ詩でも作ってるか、いや紙とペンすらなければ歌でも作ってるんだろうな。

で、おれがなぜファッションで反復しようとしているのか理由は簡単である。社会人になったからだ。本を読む時間がなくなったからだ。外部環境に合わせて人間は反復する。社会人をやめれば本を読むのでファッションをしなくなるだろう。ぼくはこの前、自分が書いた物語を読んだ。拙いがえげつなかった。今まで読んできた、見てきた物語に引けをとらなかった。しっかりと与えら、与えていた。ぼくがもう少し真面目で丁寧で同じことを続けられる性分だったら、世に出たと思うし、みんなも読めたのに。

書くことと読むことはセットだ。ファッションのツガイはなんだろう、と考えると、おれの名前の中でドロドロに溶けているような何者かが「社会だろう」と呟いた。こいつらも悪いやつらじゃない。正しいよ、きみはいつでも。

『you know you're right』by NIRVANA, lyric from Kurt Cobain and his wife. polly wants a cracker.

ヴィンテージが悪いわけじゃない

年代追ってる内に歳食うで。50sファッションはマーロンブランドがやってるからもうやらんでよろしい。おっさんの真似してヴィンテージ集めるのもやめといた方がいい。色々と解せないことが多い。ナイジェルケーボンにさえイラつくこともある。その時代は終わったのだ。いちいちあなたがする必要はない。シャネルを持って反骨ですわたしみたいな、そんなアイコンどうでもよろしい。服が泣いている、いや実際は泣いていない。ものだからだ。ただもったいない気がする。ある年代に生み出された名品だからといって何の変奏もなしに、当時のリプロにされるのが。服から可能性を奪っている。搾取だ。復刻メーカーも同様に腹が立つ。懐古厨め。中途半端な変奏も気に食わない。

お前のしらない固有名詞たちでおれは積み木遊び

本を読むと影響される。自分の言葉さえその人っぽくなり、その人と同じようなことを言いだす。それにもだんだん飽きてくるが、思考がそうなっているので、そうなる。あくる日には言ったことさえ忘れている。しあわせ。

【なぜこうも平仮名は丸いのだろう。漢字を見ると、例えば草冠で首を吊って殺してやるぜとか【さんずい】に刺さって死ねとか思えるのだが、平仮名を見ると色々と捥ぎ取られる。それに平仮名は意味を遅延させてくるので後から炸裂する。非常にタチが悪いが心地よい。腹立たしいが嫌いになれないし、本当のところ、よくわからないが好きであり、憧れもある。イシヤクの文章を読んだときの感覚に近く、キココスタディノフのコレクションを見てる時の感覚にも似ている。

で、カタカナだ。この無機質さは一体なんなのだろう。外国語を外来語に置き換える日本語の膜であるにも関わらず、なぜこんなにもライト臭いのか。まあそりゃそうか、無理やり日本語にしてるわけだから吸引力の変わらないただ一つの掃除機みたいな貪婪さがあるわけだから。はなはだ共通項がないわけではなさそう。そうか、ダイソンは右翼だな。でも移民ですら吸い込むからもっとコスモだな、でかくなればビーズ吸うみたいなノリで地球も吸うだろう。どうでもいいこと。カタカナは直線、平仮名は曲線、おれは平行四辺形で手を上にして歩いている。いつでもな。

で、文体の話に戻る。戻らない、いや、戻る!戻るか戻らないか、では留まるのか、いいや進むのか、立ち竦むのかマイケレン味。おれのケレン味よ!いいやマイケレン味よ!芦田愛菜

マイというのはどこまでがマイなのかという問いには興味がないし、マイというのは合いの子であるというのも聞き飽きた。マイドゥルーズも、マイラカンも、飽きた。言うのも嫌になる。世界を閉じすぎている。独り手に死人とチェスしているのとおなじだ、彼らが生きてるとしても、本になった、会話が終わった時点で死んだのとおなじだ。ただ不思議なことに小説家や詩人の固有名詞にはマイをつけられない。これはかなり個人的な話だろう。無理だ、違和感があるし、凸と凸だ。そこはおれのプレイスじゃない。

どうやって言葉を書けばよいのだろうか。ぼくには伝えたいこともないし、伝えたいことは書くことと関係がない。そもそも無縁だろう。文体は闘争でしかないのではないか。ぼくの前でチラついたヤバい奴らと、その視線を浴びて、おれの視線を向けて、やっと出てくる一言目を待つこと。おれは引っ張られ、裂かれる。四方八方からヤバい作品がおれを股裂どころか、無言に足らしめてそれどころか、おれに入ってきてそいつみたいな文を書かせる。で、おれはおれを望むのだが、マイケレン味とはなんぞや、と。ふと考え、風呂の水面で出るあぶくのような喃語をあげる。それは妄想か、どうだ。しらないか、お前にはわからない。始まりについて考えるというだけで俺は死んでいる。求めても、求めることだけがラディカルだが、ふとした風のなかに天使を見つけたりする、この時だけのために、その時の発熱、その時の全能感のために、無理だと感じつつも指を走らせる。それがマイケレン味なのか知らないが、そのときは味もわからない。でも、おれはきっとその天使に固有名詞をつける。名前を呼んでも彼らは顔すらださないが。

泉へ

金があれば鬱病は治ると知人が言っていた。でも、在るだけじゃだめだ。湧いてこないといけない。大漁どころじゃない、ぼこぼこ、ぼこぼこ湧いてこないといけない。在るだけじゃ消費になってしまうのだ。在るだけじゃ無くなってしまうのだ。無くなってはいけない。無くなるかもしれないと思えば思うほど辛いことはない。一生減らないお菓子ほど幸せなことはないだろう。無くなってはいけない。無くなることを考えるのは死について考えることと同義だ。

まあいいや、今日は無くならないものとは何だろうということである。ラカン現実界を思い出して知ったかしても仕方ない。無くならないものとは何だろう。身体は有限だ。想像は自由だ、んなわけがないが、無限ではある。そういう意味では有限かもしれない、でもそんなこと関係ない。

東くんは草を刈る。東くんは成人男性が生涯食らうだろう量を凌駕する枝豆を作っている。東くんは枝豆を消費することがない。例えば、AV男優が射精するシーンを見て、滝を思い出す。量が多いと感動してくるし、性的な快楽とも混じり合った何かしらの興奮も覚える。精子もなくならなければいいと思うが精子もやはり有限である。身体は有限だ。三人寄れば文殊の知恵と言うが、集まっても仕方ない奴らもいる。

電車に乗ると、色々な会話が聞こえる。酔っ払った若者風のおっさんが色々喋っていて不快である。若者風はキモいのである。なんというか、おっさんが若者と同じファッションをしているとキモいのである。未だ発情期かと、未だそこか、と。カッコいいと思ってるのだ、死ねば良い。色を感じない服装とは概ねキモいものだ、誰であれ。若者もキモいのである。色がないのはダメなのだ。かと言ってユニクロでいいんすよ、服なんて。もキモいのである。いやあ僕だけかもしれないが、みんなキモいのである。キモい奴の方が多いのだ。なんでこんなにみんなキモいのだ。なんで人間はこんなにキモいのだ。キモくてキモくてやるせない、人間どもはみんな龍の背中に乗って富士山にでも行ってなさい。

なくならないものとは何だろう。人間の世界にあるのだろうか。人間のつくる規模にあるのだろうか。あるのだよ、それが芸術だ。規模なんだよ、ミニチュアなんすよ芸術なんすよじゃないんだよ。芸術なんて消費できるもんじゃないんだよ。あーこれってあれですね、すごいじゃねえんだよ。比喩すらないんだよ。リアルなんだよ。階段のうえのこどもにきみは話しかけることができない、だよ。名前も知らないんだから、一緒に泣くことしか、死ぬことしかできないんだよ、名前すら知らないから。話がどんどんと逸れたけど、もっと心地よい言葉を。言葉の輪郭しか残らないものを、作れたらいいいな。汚い意味も綺麗な意味もそこにはない。漂流物みたいに洗ったげる娼婦みたいな海は漂流物をぼこぼこ浜辺に届けます

むかしのこと

ぼくには相方がいた。思い出話になってしまったが、何かを作ろうとしていた。その時は未だ革命は可能だと思っていた反面、無理であることはわかってた。実際、革命は至る所で起きている。勝手に社会を捻じ曲げて勝手に生きている勝手なひとたちのことである。革命は実はかなり単位が小さい。大きなことではないのだ。どちらもそれは分かっていた、勝手に楽しく生きるために何やら世界へ仕掛けようとしていたのだ。楽しくとは消費のことではない、いいものを買っていいものを食ってではなくて、勝手に生きるということだ。消費のサイクルと人間が切断されることはないので、なにも社会と断絶しようとしていたわけではない。ぼくたちはサーファーになりたかった。たくさんある消費の歯車になるのではなくて、あらゆる歯車を好きなようにサーフィンしたかったのである。まあ横断したかったのだ。記号を。

これはあのユーチューバーの話ではないので、被せないでくださいね。

ぼよく彼との差異について考えていた。ぼくは就職したが、彼は未だ元気に何かをやっているだろう。就職したときには泣きながら報告したのを憶えている。彼との差異は何なのだろう、就職っていう選択肢があるか否かとじゃなく、根本的な性質的な差異について、当時よく考えた。何かが根本的に合わなかった。センスと言われればそこまでだが、その言葉には余白が残りすぎる。で、あれから一年経った今、それが何だったのかわかったのだ。

今日、久しぶりに雑誌を買ってみた。消費を促す本である。歯車の潤滑油といってもおかしくないし、まあぼくは雑誌が嫌いなのだ。一定のサイクルに飲み込もうとする、現行消費社会の使いみたいな気がして。だから雑誌を読む時は、だいたいコラムの流れと構成しか見なかった。

ある時、相方に『女の子の気持ちになって本読むの大事やと思わへん?』と聞かれたことがあった。『あんな腐った潤滑油読んでる奴の気持ちなんかどうでもよい』みたいなことを返したと思う。

ふと雑誌を眺めていると、そんな会話を思い出した。ぼくはハッとしたのである。ドゥルーズの概念に生成変化というものがある。要は真似をするのではなくて、『それになれ(to be)』という概念である。例えば、犬のモノマネやコスプレをするのではなくて犬になるのだ。有限性の問題で、本当に犬になれるわけではない。わたしたちは人間であるから、この身体で犬になるということ。まあ、なぜドゥルーズがそんな概念を提唱したのかについては、さきほど説明した勝手に生きるためである。勝手に生きるためには生成変化が必要と、まあざっくり言えばそうなる。ざっくりしすぎてるけど、まあいいか。話を戻す。

ぼくは雑誌の技術を見ようとする。単純にサイクルに飲まれるのが嫌だったのだろう。彼は雑誌を楽しもうとする。その雑誌が好きな女の子にならうとする。彼は生成変化の話をしていたのだろう。その時もそれには既に気づいていたので生成変化について話したのを憶えている。

当時のぼくは、あらゆる可能性を切っていた。関心のないことは切っていた。だから人付き合いはあまりしなかった。で、それとは対照的に彼は色々な交際関係があった。彼はよく『おれにコードを飛ばして使ってくれたらいいよ』と言っていた。ここでまたドゥルーズの登場。ある哲学者はドゥルーズには二つの顔があると言っていた。接続と断絶である。ドゥルーズはこの『と(and)』の哲学者であるので、二つの顔があるのは当然のことなのだが、ある哲学者はドゥルーズ哲学は接続の思考として片付けられがちだが、実は断絶の顔もありますよというのを伝えるために書いたとのこと。また話を戻す。

ぼくは断絶の人間である。興味のないことは切る。興味のあることは潜る。読書の仕方も憑依型である。もう分かっていると思うけど、彼は接続の人間だった。

ある時、彼は路上でカイロを配ると言い出した。ぼくは猛烈に反対した。そんな当てこすったようなことしたくなかった。彼はコミュニティを作りたがった。ぼくはいいものを作りたかった。誰かに理解されなくとも、誰かに見せる必要すらないと感じることもあった。彼にとって作品は幅広い意味でコミュニケーションだった。ぼくにとって作品は狭い意味でコミュニケーションだった。作品の提示は、人と繋がるためだった。作品の提示は、人を近寄らせないためだった。ぼくは二人でよかった。殺したい奴が山ほどいたから、繋がりたいというよりも殺したくて仕方なかった。

結果論でしかないが、接続の人間と断絶の人間のいい関係を作れなかった。空はいつも怒りで満ちて、瞬きすれば血が流れそうなくらいの、どうにもならない閉塞感が漂っていたぼくにドゥルーズを教えてくれたのは彼だった。死んでいないのは、哲学を知ったからです。ありがとう。

では、いい感じなので最後に数年前に書いた自分の詩でお別れしましょう

「蟹と歯茎」

かにあぶく はきだし みあげた空から 降るいかずち あぶくにうつる まだらの余生 こけむす甲羅 地にあずけ みどりいろ 苔のなか しずかな河べ もうろくしとりまった わかめで こさえた汁 がっぱがぱ のんどりまった 歯茎のあっかところ しみまった シガレット かに あわいあぶく ゆめのように はきだし はじけるった ぱんぱんならず はじける せかい みつめる はぐきの あっかところ しみまった

カルチャーをつくる

ぼくがなぜリサイクルショップで働くのか。単刀直入に言うと最強だからである。例えば、アパレルの話をする。ドルガバはドルガバの服しか売れない、古着屋は日本のおばあちゃんの服を売れない。でも、リサイクルショップには全てあるんですよね。エルメスもマルジェラも、シュプもヴィンテージ もおじいちゃんの服も。小学生の頃被ってた黄坊も、お兄系もギャル男もすべてあるんですよ。だから最悪にも最強にもなりえる。

リサイクルショップはいっぱい乱立してるけど、スタイリングの提案まで出来るリサイクルショップってないわけです、現状、買ったものを売るだけです。実際はリサイクルショップには秘めた可能性があってその可能性を解き放つ人間がいてないだけ。某大手はスタイリングの提案に躍起になろうとしているけど、現状に追従するスタイリングしかできていない、インスタでプチインフルエンサー使ったりしてるけど、あれで新しいカルチャーできると思いますか?

例えば、レッチリのアンソニーはロックにラップを混ぜましたよね。当時のレッチリの服装なんか見てると、ミクスチャーって言ってもいいほどごちゃ混ぜです。ぼくはあれがしたいんですよね。追従するのではなくて、リサイクルとして新たなカテゴリーを作る。時代も、ものも、使用途まで異なるものを一つの形として提案する。

学ランも使いたいし、日本刀も使いたい、ちょっとライト臭いけど、そうゆうのってリサイクルでしかできないことだと思う。2019年はそれが出来る手筈は整いつつあるので勝手にやろうと思ってる。

皆殺し

日記だ。個人の手記だ。不快にならない方がおかしい。公にされているからといって、何人でも入って良いわけではない。覚悟しろ。これは個人の記録だ。何度も言う、当たり障りのないものではない。扉が開かれているだけに過ぎない。私を知っているものは立ち去れ。その方が良い。知り合いは他人よりも遠いのだから。

2019年1月10日休日。人間に会った。死にたくはないが、ぼくはこういった類の人間と会うと死にたくなる。世界がすごく狭く感じられるのだ。『お金をもらっているのだから、誠心誠意働けよ』これが常識だと思っている日本人多すぎないか?労働と金の関係は実に不可思議な関係だが、それよりもまずなぜ誠心誠意働かないといけないのか。サボってるわけではあるまいし、立派に仕事はしているはずだ、時間を使って。なぜ精神まで捧げなくてならない。時間を捧げている、それ以上のことを求めるのなら宗教と言わざるを得ない。宗教が良いか悪いかは別にして、無自覚的に宗教を行なっている人間ほどタチの悪い人間はいない。そういう人間に宗教ですね!というと怒るのである。かつてはホンダもパナソニックも偉大な宗教だった。かつては。今の宗教はショボすぎる、器も狭すぎる。まさに時代を反映している。このご時世はっきり言って宗教じゃ無理だ。全員をやる気にするとか考えずにやる気のある奴だけ採用すればいい。取れないのなら、その会社には魅力がないということである。働いてる者が悪いのではない。会社がその程度のモチベーションしか与えられないから、やる気のある人間が来ないだけの話。奴隷根性丸出しの会社にだれが行くものか。そういった会社に限って精神論で労働者のモチベーションを管理しようとする。彼らが使う言葉がまさに『金もらってるんやから、、』である。阿呆らしい。宗教も腐ったもんだ。そんな言葉で励まされる労働者がどこにいる。賃金が上がったってやったあああと喜んで働きますなんて奴はいない。ぼくは死にたくなっている、何年も前からだが。こういう人間が多すぎるので、ぼくみたいな人間は死ぬ以外に方法がないのではないかと思うのだ。自営するほど頑張りたくもない、ただ普通に暮らしたいだけなのである。成功したいとか、金が欲しいとかそんなことは艶も望んでいない。普通に暮らして、仕事に時間を捧げるかわりに金をもらって好きな人と休日に遊びたいだけなのだ。この暮らしを実現するために頑張らないといけない社会って一体なんだ。人様の役に立つとはこの国が好きな言葉の一つだろう。役に立たないと金は稼げないらしい。そんなのありか。強欲な奴は金を儲け続ければいいし、邪魔はしない。普通に暮らしたいだけなのだ、それだけなのになぜそれができないのか。ここは先進国と呼ばれる国のくせに妙な精神論が労働神話に根付いている。今まで温めていた詩作を全て解放するつもりでいる。もう黙っているのは懲り懲りだ。自分の詩に自信があるとかないとかどうでもよい。このまま死ねるか、自称弱者のクソどもばかりで溢れた詩で集める共感など糞食らえだ。皆殺しにしてやる