新幹線に乗る!

人生で初めて新幹線の指定席に乗る。バスかヒッチハイクでしか旅行したことないから、未知の領域である。一年ほど前、イシヤクがこんなことを言っていた。「バスは疲れる。新幹線は出た時と同じ状態で別の場所へいけるのでとてもよい」

バスは疲れる。大阪から新宿へ着く頃には2日分くらい疲れているような気がする。早朝に着いても、マクドくらいしか開いてないからマクドで仮眠をとる。数分も経たないうちに店員に椅子を蹴られ、ザッツ東京スタイルと呟き、もう一度寝る。また蹴られるR.I.P

新幹線に乗りたかっただけかもしれない。ちゃっかり二泊もするけど、貧乏性なだけだ。予定も昨日決まったところ。とはいえ、服装も旅人さながらだったので、キメて東京へ行く機会がなかった。今回はキメて東京へ行ける。それも楽しみの一つだ。悲しいことにぼくはキメにかかるとスベる。手荷物は持ちたくないから二日間、同じ格好をするハメになる。シルバーのタイツみたいな、座ると椅子にラメがつくようなパンツを履いていこうと思っているが、履くとまず身動きが取れなくなるのでどうしようかと考えている。 今回はパンツを中心に考えたからパンツを代えるとなるとコーディネート変更を迫られる。ふつうにめんどくさいし、最近はタテノリみたいな格好ばっかりしてるからタテノリの格好になってしまうだろう。パンキッシュなスタイリングはかっこいいが似合いすぎる、似合いすぎる自分に飽きている。かと言って横ノリも飽きているし、70sも何か飽きている。もはや年代縛りが嫌であり、似合うだろうなと想像しえる服も嫌である。この際、一色レイヤーになろうかな。

死に至らない病

昔はね、人間を解放しようと思ってたんですよね、ずいぶんと大義ですけど。今は、それを思わないですね。迷惑という概念がありますけど、この迷惑という言葉に非常に迷惑している人間がおりますわな、その人間のためにも頑張ろうと思ってたんです。でも、今はダメですわ。例えば、あらゆる書物は人間のためにあるわけじゃないっすか。基本的には。人間ばっかりアホばっかりでもうええんちゃうけとか思い始めてから何も書けないんですね。承認欲求もないから余計書けないですね。一言で言えば、ぼくは革命のために書いてたかもしれないですね。自己紹介も兼ねてね。この犬野郎とか猿以下とか、悪口で使う人いてますけど、それ悪口なってないですよ。人間を良くするとか、解放するとか、ほんと無理な話やと思います。単純に言葉の衣擦れのようなあそびをやってても、どうしてもぼくは憎悪や賛美を綴っていた。だからぼくは革命したかったのだろう。どうしてこうなったのか、単純に人間が増えた。それだけの話です。訴えるものがないんです。メッセージのない演説家でございます。さながら、ぼくは今度東京へ行くのですが楽しみですね。このまま、この論理の極へ行くならぼくは死にますね。でも、死にたくないわけです。キキちゃん好きやし友達も好きやし、みんなラブやから。死ねないし、生きたくもない、この有耶無耶な状態を繰り返しぼくは、話してるわけですけど。おまえらは一体何しにこのブログを読んでいるのだ。こんなところには何も落ちていない。心配は御無用。希死念慮ではない。ただ価値を見失った、本を読み書き、人間に伝えるということ。社会の潤滑油でしか、ないのならば音楽なんてものは下等。音符こと爆ぜて無へ帰れ。ぼくは音楽に救いを求めた。救いを求める、その情けさなさ、音を聞いた耳で言葉を聞く、涙を流したのと同じ目で人間を見る、この遣る瀬無さ。この屈辱は、今までオブラートに包んできたものが失われたときに、まじまじ重く感じられる。ぼくは何処へ行こうが、こういうことしか感じられない。何をしようが、ぼくは生きられず、死に至らない病だ。見えなくてなっても突然降って湧いてくる、ぼくの、中には億千の細胞や菌がいる。消えることはないのだ。見えなくなるだけで。ぼくのひかりもまたそれに同じ。こんな反復をしても精神が丈夫になるわけでもなし、日に日に重くなる。なぜか、知らないが謝りたい気分だ。ごめんな、前世、後世。もしも人間だったら、人間に憧れていたら。こうやって思いの丈を綴って今心が軽くなって眠って朝がくる。この反復に救われる情けなさ

令和を知らない者


とても大きな共通の記号が発表されたとき、わたしはアメ村の三角公園前の、いつも、つまらい広告を垂れ流しているヴィジョンの前にいた。黒でバッチリ決めた黒ずくめの集団と、未だ青い子供たちは新元号の発表を待っている。知らない頭がたくさん公園に、知らない頭がたくさん公園からはみ出て、この時代の次の時代の名付けを待っている。


わたしたちは、あまりにばらばらだ。時代の名付けほどに強力で包括的な記号の授与はない。誰が死のうとも、誰が生まれようとも、誰が殺されようとも、わたしたちは何を期待しているのだろう。アカルイミライか、この平らになった終わりなき日常が風雨に晒されることを望んでいる。


時代は令和と名付けられた。これから生まれてくる子供たちは、令和生まれになる。その前に死んだ者たちは令和を知らない。わたしたちは令和を知らない者が知らない時代を生きる。そう言えば感慨深いものがある。日本という国だけの話だが。


「新しい元号は令和となりましたが、いかがですか?」


「ぼくはてっきりヒップホップになると思っていたんですが。びっくりしました」


記者に話しかけられるのを想像しながら下らないことを考える。「怒るでしかしでも良かったんですけどね」


平成に死んだ者たちは令和を知らない。生きるわたしたちには共通の言葉がどんどんと増えていく。


有識者「平成の次の元号を教えてあげようか?」


ホステス「知ってるの〜おしえて、おしえて」


有識者がボソッと呟く。


「令和だよ」











鳥の声は泣ける

鳥の声は泣ける

それは 遠いむかしのことを思い出させる

だれかが鳥に託した想いを 

わたしは鳥の声に聞く

鶏鳴 朝を告げる

わたしなら スズメで事足りる

ちゅんちゅんと わたしは思う

死に死に転がった 夜を越えて

わたしはここへ来た

四畳半に拡がった シミは深い池

わたしの声は跨ぐだろうか

たとえ どんなものになっても

鳥に想いを託さない わたしは

はるかなことを考える

はるか過ぎて わたしの手から巣立つ

ヤクザな季節とその節目を 節目ごとに思い出して また春がやってくる



アニメを見ている。主人公が年々、貧弱になっているのは、視聴者層に合わせているためだろう。エヴァのアスカや綾波みたいな女の子に手を引っ張られ、世界の命運をかけて闘う。

この手の話は今や王道となった。時代を反映しすぎている。共感か、したくないな。しても良いが、そんなに誰かと共感したいものだろうか。お前たちの見たいものを見せてやる。結構だ。涙にも色々な涙がある。涙の種類をおれは知っている。人間として生きている我々には、対人間用の涙があり、ピュシスに触れたときに流れる涙がある。なんでもよい、おれの目の前にある広告をすべて見回してみよ。そのうちの、映画広告を見たまえ。そのうちのほとんどは、おまえに人間としての涙を浮かばせる。人間は泣けるように作られている。坂口安吾はそのようなことを言っていた。

共感はいつも肌のうわをなぞる。互いに分かり合えたような顔をして人間が人間になりすます。共感しようもないあなたの話が耳に聞こえる。本当は我々が共感しあえることなどないのだ。手鏡でもしていた方がよっぽど慰めになる。

おれのこの、偉大な屈辱は、なあ、おまえたちの与り知らぬ、永遠に知ることのないところ。おれは車に乗れない。











文化的に終わってる

信用していたのに残念だとか、好きだったのに裏切られたとか、ようありますわな。というか、よう聴きますわな。芸能人のスキャンダルとかでさ。ほんで、応援してます!とかも、それと同じくらいよう聴きますわな。口から出るもんはタダやから、アホみたいにみんな言うねん。鬼情けない。勝手に応援して勝手に失望して裏切られましたっておまえらどんだけパーリナイッやねん。まあ例えばドラッグね、ミュージシャンがドラッグで逮捕されたらそんな人だと思ってなかったのに!とかね。ミュージシャンにまでクリーンさ求めるあたりヤヴァい。その人の作ってる音楽が好きなのであれば、人格やら良識やらを彼らに求めないだろう。

そもそも応援するって軽々しく言うけど、ケツ持つんは本人やねん勝手やねん、おまえの人生がおもんないからって誰かを応援して退屈潰してるだけやん。逆におまえに喜怒哀楽を与えてくれるシャブ中に、より感謝を捧げよ。どうせ飽きたら終わりっしょ。おまえが飽きても、ミュージシャンの人生は続く。勝手に聞いて勝手に離れろ。作品との距離感はそれくらいでよい。作者が死んでようが、捕まってようが、作品は残る。作者の人格がどうであれ、作品は既にある。黙って聞いとったらよろしいがな。

皆様にご迷惑をおかけ致しました!応援して頂きありがとうございました!社会的な身体への謝罪。皆様は謝罪を求める。くだらない皆様の人生はだれに謝ったらええねんやろうな

往還

いつかはしっかりとちゃんと仕上げる気だったが、もはや、そんなことはしないだろう。という諦めから、およそ三年前に書いたものをアップロードした。夜な夜な何かに駆り立てられて、ひたすらに文章を書いていた日々のなかで辛うじて意味が通じて最も長いもの。色んなものに影響を受けた。その影響を隠すことさえせず、勢いが死ぬまでやり続けた。途中でカンフル剤でも打つかのように、自分を興奮させる言葉を文とは無縁に穿ち、流れるままにしていた。

ぼくは詩から物語へ入ることが多かった。今は夢をみたときにしか物語ることがない。伝えたいものなど何一つなかったし今もない。文を書くのは楽しい。『〇〇が死んだ』と書けば〇〇は死ぬ。『でも、〇〇は生き返った』と書けば〇〇は生き返る。死と生を簡単に往還できる、ありえないことが文の上では行われる。文は揺らぐ。書いてる人も読んでる人も揺れる。明日にはロンドンへ次の文ではブラジルへ、出身地も変えれば良い。意味の統合性は死に、意味の衣擦れが浜辺に転がる漂流物のようにただ有る。ことばは人間の環世界間移動能力を極限へ導く。

海辺へ行くような気持ちで文章を読むと、文章が全く読めなくなるのは、きっと意味の統合性に満ちているからだろう。

ぼくは殆どの時間を本を読んで過ごしていた。本はぼくに言葉も光景も与えた。本はぼくの闘争心を煽る。でも、いつからか、掌で転がされているような感覚を覚えてもいた。ぼくは迷子だった。彼らの影響に負けたり、勝ったりしながら道を進んだ。それが書くことだと思ってもいた。

あたらしい言葉を獲得するのはある種の快感を覚える。知っていたことを一言で表せる言葉は非常に便利だ。それを駆使してもっと深く広く物事を考えられるようなる。ただ広く考えられるようになったからといってどうなる?そこに快楽を見出せている時期はそれでいい。でも、それが終わったらどうなる。だれとも話せない自分が残る。言葉を知るものとしか話せなくなる。ぼくはヘンリーダーガーではなかった。

今は何が好きなのと訊かれても答えることはできない。ファッションか?と訊かれても首を横にふる。書くこと/読むことが最も好きだった時代に戻りたいかと訊かれても答えはノーだ。社会人は楽しいか?と訊かれてもノーだ。知的好奇心はほぼ死んだ。

次はまた何かを作るのだろうか。日本のため、世界のため、来世のため、そんなどうでもいいことのために書くことなどない。至極どうでもよいものの中に、ただある身体が不思議であるとともに不思議でない。明日には一時間後にはまた考えも変わってるだろう。その振れ幅がなければ死んでいる。これまさに環世界間移動能力の賜物!