さくら(独唱)

さくら(独唱)が音楽チャートを賑わせたのは、十八年前なのか。指折り数えるには足りない年を数だけ数えると遠いが、時間は直線ではないので、時折、ありありとその日々について思い馳せる。時間が身体なら老うだけ。記憶は夢のようにどろどろと体験も空想も溶かして、私たちに思い出として捧げる。

思い出、素敵である。曖昧で不確かだが、それを経たような気がしてくる。統合性もないわりには、鮮明に本当にあったことだと言わんばかりに海底にギラッと光るガラス片の如く、人間に刺さる。あの瞬間はこうぐっと身体を持ってかれそうになる。踏ん張る足は、宙を舞い、それでも馬のやふに猛烈に地面を踏みしめ、カツカツと踵を鳴らしながら走り出したい欲望に駆られることもあれば、それとは対極にしんみりと風の運ぶ匂いに酔いたいときもある。

匂い、温度、湿度、味覚、視覚がふと強烈な記憶に結ばれ、涙や笑いも誘う。ある密で超個人的な思い出が神経、血流をめぐりカッカッとする。ああいう感覚と出会うたびに、わたしたちはセルフで忘却しているふりをしているが、じつは何かに記憶を擦りつけて忘れているのではないか、と訝る。

夏の匂いがある。夏の湿度がある。膨らんだシャツと聞くと夏を思い出す。KinKi Kidsとコカコーラのせいかもしれない。海辺で自転車を漕いでおさがりで身の丈に合わないTシャツが膨らむ。後ろには当時付き合っていた彼女が座っている。町育ちの私にそんな実体験などあるはずがないが、これも思い出である。起源に俗も糞もない、古里的だ。古里的とは喪失したものを思い出すことを言う。

毎度、毎度思うが、私に伝えいことがまるでない。メッセージなどはない。だからオチもない。場当たりで思ったことを話す。考えていることもない。思いつきで話しているから深みはない。読み取るのは自由である。書きながら考える。話しながら考える。言ったことをいちいち覚えているくらいの責任感もない。ただ適当に書いていてもあるリズムがある。よいリズムと悪いリズム、歯切れの良さ悪さ、良し悪し、すべては好みであると呼ぶと味気ないのでケレン味と呼んでいる

夢を見る

よく眠る。すごくいい夢をみたことは憶えていても、忘れてしまう。夢は映画よりも私的で、ほとんどは紐解けるが、中には紐解けない謎もある。時間が狂っている。距離が狂っている。登場人物がぐるぐると変化する。すべて醒めてから気がつく

微花買う

本屋へ行ってNew微花を買う。イシヤクは由吉とともにあったらしい。たしかに由吉とイシヤクは関心ごとが似ている。微花を読むと、イシヤクだとわかる。イシヤクと話していたことを思い出す。感じること、考えることを文にするのはとても難しい。イシヤクは由吉の、揺れや淡いに習って書き進められたのだろう。見開きにぐっとイシヤク連弾、不連続な残影が凝縮している。ハナミズキを軸(点)にして、曖昧でたしかな記憶を辿る、糸を手繰るように慎重に、現れた断片にロープを巻きつけある瞬間を強引にのっとる。釣りではない、完全なる待ちではないという意味において。迎えにいく、いるかいないか、現れるか現れないか、あったのかなかったのか、その全てを引き受ける。見事でした。

見えるものすべてがなざせるわけではないが、名指して花が咲きそれを識ることができる。人間のいる場所、立ち位置ってのもちゃんと書いてあった、大義

時計じかけのオレンジで主人公のアレックスがベートーベンを聴きながら、『オールグラビティーオールナンセンス』-重力なんてナンセンスだ-って呟きながら回想するシーンがあるんやけど、そこには色んな物語の断片がブワアアアっと溢れ出てくる。実際にはありようもないシーンとか、あったとかなかったとか記憶には関係がないのでイメージの断片が溢れる。いいね、あれ。今日は疲れたからねるのであーる

そんなもんか

ラップが流行っている。ポップスもロックもある。そもそも音楽がある。その最中にあって、詩とはなんなのだろうか。詩も歌である。それは分かった。そんな戯れを聞いてあーそうですか、と納得できるものじゃない。詩はまず紙に書かれる。詩は書かれたものであり、音楽のようにリズムを規定しない。おまえのIphoneに朗読が入っているか?詩は歌である。当たり前の話をするな。詩は歌である。聴くことができるだけで、まずは見るものだ。視覚芸術だ。どいつもこつも同じようなことを言う。写真が歌ではないのと同じである。視覚言語によって踊らせる。絵画がある、写真がある、物体がある。言語はだいたい明朝体、フォント自体に個性などいらないデザインではない視覚言語だ。有用的で有効的で、ルビを振る、全ては読めるようにするために。

つまらない、ファッキンつまらない、おまえの顔を見せろ。つまらない、おまえの顔がつまらないのではなくて、顔を見せないおまえがつまらない。何を仕事にしようが、何を使おうが、顔のないおまえには名前があるだけ。それをおれが知っているだけ。おはようと言ってすれ違うような、同郷の人。明朝体をいじろうがお前には用がない。ファッキュー。

つまらないものを積み重ねて出来たお前の肢体。お前の顔は年ごとに埋もれ、いつのまにか、お前は死体、お前も死体、みんな死体、呟け死にたいと顔を巡る冒険を始める還暦過ぎ、見つけるのは愛国心か信仰の日々。

レインボーの旗をふろうが、白旗だろうが赤旗だろうが、その手はお前の手から離れた高尚なる宴、通えよ木槿の里に。歌いたきゃ歌手か合唱団に入れ

おれたちヒューマンビーイング

折り畳み自転車とノースフェイスのバックパックを背負って高校へ行っていた。当時クソほど馬鹿にされたのを憶えている。なんでそんな服着るのかと訊かれ、鮫みたいでかっこいいからだと答えると、みんながおかしいと思ってんねんから、その格好おかしいねんでと、ミッキーマウスのメッシュキャップをを斜めにして被ってる雑魚に言われる。

で、一年後である。気持ち悪いほど多くの同級生かまミニチャリとノースのバックパックを背負い、自分の中傷していたマウンテンパーカーとかを着だした。まあ気持ち悪いのである、この光景が。そういう奴らが今はモンクレなんか着飾って、昔は古着屋とか行ってたとかほざくのである。死ねばいいのにと未だに思う。27歳になっても未だに思う。それがずっと根にあって、流行も、人間も、嫌いである。安かった服がべらぼうな金額に跳ねる。市場もキモければ、人間もキモい。

今も昔もストリートと大衆の間には一年以上のタイムラグがあり、その波は同心円のように広がっている。ぼくは今、その同心円の末端みたいなところで、これまた嫌いなディーゼルを半額にして売り捌いている。何が流行っているのかも、何が廃れているのかも、住んでる場所によって変わる。流行は同心円の波状だというのは最近わかったこと。流行りは過去で同時に未来でもある。サイクルが激しいからこそ同時に見える時もある。

話を戻そう。自分で何がかっこいいのか分からない奴ら、ものを見ることができない奴ら、そういう奴らを一言でまとめれば、色んな意味で情弱、情報弱者になる。自分のアンテナもないし、俯瞰的な視点もない奴らの総称がそれだ。そういう奴らのために大企業さんがいてるのである。よくあるスローガン、『幸せを届けたい』なんて建前じゃないか!と憤るが、本当に幸せを届けているのである。儲かるからやってますねん!で済むことを、アホなオマエタチに分かりやすく言ってくれているのだ。気分を害したか?どうでもいい。オマエタチは幸せだ。おれも幸せだ。永遠に分かり合えないことを常々見せつけてくれるから、私は落ち込んだり、ハッピーになったり、毎日退屈を凌げる。みんな違わない!おれたちヒューマンビーイングは、おれたちは日本人で、おれたちは同じ言語を話すのに何も分かり合えず、それでもおれたちはヒューマンビーイングである。

話は変わるが、私には最近夢が出来た。夢なんて今まで持ったことがない、この私に夢ができたのである。これほんまにすごいことやと思う。

ウガンダルワンダの辺境にゴリラの住む森があり、そこへ行くツアーがあるらしい。実際に、遭遇した場合は目を合わさない、音を出さない等色んな制約がある。人間どもが下を向き、気配を消している中、ゴリラはまるで人間をおもちゃのように弄んだり、存在すらしていないかのようにむしゃむしゃ葉を食べたりしている。そんな動画を見てコレだと思った。

重ね歌

電車。帰りの電車でグッタリしていると、前の座席から歌声が起こった。よく聞くと男が新垣結衣のヘブンリーデイズを歌っている。目を閉じている。唇がてりてりしている。不意に笑ってしまった。男と目が重なった。でも、笑いが止まらない。なぜおれはヘブンリーデイズを口ずさまれているのだろうか。考えれば考えるほど笑けてくる。

怒られたら謝ろうと思った。喧嘩すれば片手で勝てるくらい陰気そうな男の子だったが、歌声を笑われたら誰だって怒るだろう。悪いのはおれである。とはいえ、彼はまるで怒る気配はないし、ふざけている様子もない。ただおれだけのために歌っているのではないかと思えるほど優しい目でこちらを見てくる。男の隣に立っている向かいの三人組はケラケラと笑いだした。にも関わらず、おれへ向けて歌うことをやめなかった。

今になって思うが、おれも歌で答えるべきだったのではないか。エグザイルのラバーズアゲインでも返せばよかった。短歌の返歌のようにトキメキを感じれたかもしれなかった。いや、返歌ではないな、重ね歌が正しい。

おもろい人

店長にもらった本を未だ読んでいない。経営とかマーケティングについての本だ。その正しさに帰依するのは危険なような気がして、読めずにいる。本を読むことは怖いことだ。あくまで一つの見解を読むだけであると理解はしているが、読むとはセックスでいうところの本番行為、入れることである。だれでも彼でも相手出来るようなタチじゃないから躊躇いがある。

まあでも店長はわざわざ買ってくれたのである。読みたくないです。と私が言うと笑う優しい人だ。それでも私は読まない。マーケティンの入門編だが、私は入門という言葉が嫌いだ。入門は輪郭を規定する。その者が何者であろうとどうでも良い、わ