改行的な脱出

あんがいた易く一日が終わった。数か月ぶりに洗濯した。いつもキキちゃんが勝手にやってくれてたから自分で洗ったり干したりするのは不思議な気もち。一日が終わってゆっくりと一日が終わっていくいまは、なにか話したい気持ち。きのうあれだけ悩んでいたことが今日の朝に終わっていた。文と文の繋ぎ目にきのうは独りよがり苦しんでいた。展開の速さに怯えながら、コーヒーに水を足すように無益に文を膨らませていた。

今朝、ぼくは新たな技法を見つけた。大きな発見だった。言葉は無理に紡ぐ必要はない。なぜなら、ぼくらには強烈な味方がいる。改行だ。改行は極めて特殊な性格を持っている。

それからわたしは千年眠った。朝が来た。

それからわたしは千年眠った。

朝が来た。

とではまるで異なる。改行を施すことによって、千年の眠りと朝のあいだに断絶、ある種の空白が生まれる。読んでしまえば、ゼロコンマの空白ではあるが、その空白にそれぞれの千年が生まれる。例のように改行せずに文を地続きにしてしまうと、そこには千年にも満たない早口の朝が千年と同列に並べられ、眠りは即座に打ち消される。書くことは魔法だ、どんなことであれ書かれたものは文字となり、同じ仕方で配置される。詩が素晴らしいのは改行という空白をはらんでいるからだ。開業は言葉の極めて暴力的な性格からわたしたちを守ってくれ、その空白にわたしたちをそれぞれのやり方で誘ってくれる。とうぜん。も、もそのような役割を担っているが、一文字であることに変わりはなく、それは空白にもなりえない。あくまで小休憩として。と、はある。。が文の終わりだとすると、改行は連続の中に終止符を打ち、別の角度からその続きを始めることができる。

改行の処方はしかし、適切に実施されなくてはならない。改行しすぎると改行病にかかってしまう。空白に頼り過ぎてはいけないのだ。詩、造形としての詩、小説、は全く異なることを今朝知った。