灰汁の抜けた文字

ここに書くということは少なからずキーボードを打った、もしくは打っているわけだ。ウェブでは文字が勝手に設定した字体に変化し、本来それぞれである文字が均されている。それぞれのとはつまり、紙に手で書いた文字ということである。

実際にウェブ上の明朝体を一文字見て、文字自体の感情や造形美を感じることはできないだろうし、汚いから読めないとはならいないだろう。ウェブは主に文章を伝えるのが仕事であるから、ウェブにとってその要素はなるだけ排除した方がいいに決まっている。

ウェブにとって文字の個性は邪魔でしかない。だからウェブの文を文字から個性が剥奪された文と名付けたとしても異論はないだろう。それはなにもウェブだけに当てはまることではない。あらゆる刊行物はそういうふうに作られている。

本を読むとき、ぼくらは、文字が読めないか否かというステップを無視して物語は進んでいく。文章へ思いを馳せても文字へ思いを馳せることは、本の構造上ありえない。

仮に小説が人の文字によって構成されていたら、それは極めて読みにくいものになる。個性が剥奪されているからこそ、文字は大衆性を帯びて物語をより簡単に届けられるようになる。より簡単に。

それがいいことか悪いことかはまったくわからないし、優劣をつける必要も感じない。文字の目的は伝達である。伝達には意味の伝達と情念の伝達、この二つがある。それを文字で表すか、文章で表すかだけの違い。

漢字には感情が潜んでいる。均されてはいるが、漢字だって十分物語を物語り得るのだ。いい例を挙げるなら書道だろう。あれは漢字が本来持つ意味以上の強度を我々に提供してくれる。つまり情念だ。それは文章が成す伝達を一文字で成すこともできる。形式としては文章よりも絵画に近いのかもしれない。

ここで驚くべき事実に突き当たる。文とはあらゆる文字の組み合わせである。これは驚愕の事実だ。文字から個性が剥奪されていてよかったと思えるほど、書かれた文字には強度が満ちている。

書かれた文字で小説を読むのは非常に難しいことだろう。編集者は達人だ。慣れていない人間からすれば、詩一片で十分だと思う。

かねてから、ノートからキーボードへ移し替えるときに違和感を感じていた。何かが抜け落ちているような感覚に陥っていた。いま、その答えがわかる。文字の灰汁が抜けていたのだ。

ノートから詩をみたとき、詩は詩である以前に視覚的なもの、つまり絵画なのだ。その絵画性がキーボードに移し替えられるとき、消失されるのは当たり前の話だ。

このことに気づいたのには色々と経緯がある。

一昨日、祖父の遺品である万年筆を受け取った。永年使っていなかったからインクが固まっていて書けなかったが、ちゃんと手入れをすると書けるようになった。万年筆で文字を書くのはほんとうに愉しい。漢字一文字、言葉一文字書くことの愉しさ。その美しさや汚さ。細さや太さ。インクの滲みと彩りの豊かさ。こんな芳醇な世界があったことに感動している。

万年筆にはインクがたくさんある。今はブルーブラックを使っているが、コンバーターさえ買ってしまえばどんなメーカーのインクだろうと使える。最高の相棒と出会った。こんな気持ち味わったことがない。

そんな相棒との初めての共同作業はキキちゃんへの手紙だった。読んだあと、彼女は泣いていた。ぼくは彼女に悪いことをした。灰汁の抜けた文字では伝わらない感情が届いてよかった


ちなみにカレンデラックスエッセンシャルシルバーを買おうと考えている。艦船が海を波切っているような、あの書き味はそうそうあるものではない。来月か再来月かわからないけど、買うつもりだ。ネットで見れば3〜4万くらいだったので買えなくはない。