けりとか使いたい

時が鉛のように重い。一日がどうしようもなく軽く、どうしようもなく重い。短針と長針の間に挟まれて、秒針の音せせこましく心臓のように脈打ちぬ。時は鳩時計のごとく、丁度を祝い、また狂ったように忘れけり。古文は苦手だった。高校一年生のおりに挫折して以来、ずっと欠点で高校を卒業した今でも古典の単位はない。さっと今から読めるものはないかと書棚を探ってみれば熊楠に遭遇。 一年ほど前に買ったまま眠っていた。熊楠の文はあまりよく知らない。しらないけれど、菌について論じていたかとおもえば、猥談に走り、近隣住民の悪口まで自在に変化していく文らしい。生々しさがねじれこんだような文。熊楠の文はそう評される。

ずっと眠い。眠いが起きている。なにかするべきことがあるとでもおもっているのだろう。ぼうっとしているわけではないし、かといって熱中しているわけでもないのだがうっすらと膜が張っている。膜について考えてみるだけ気持ち悪い。

朝起きる。汗疱に病みつつある手を見ていかなる装飾も無駄であることを知る。なんとまあ無気力なのだろうか。洋服、この沢山あり、これからも増えるだろう洋服。

脱水も水に染みたる洋服が皺を伸ばされ日に晒される

汗疱に病みつつある手仰ぎ見て吊られたシャツの虚しき装飾

最近は短歌にはまっている。

(汗疱になったことはありますか。あれはすごくかゆいんです。なにかときれいな手と褒められること山の如しなぼくにとっては手が無様になっていくのは耐え難い。女性には手フェチが多い。手が関係の象徴器官だからだろう。手は誰かとつながるし、表情も豊かだ。グザヴィエ ドランも手の表し方に凝っている。手を染める。足を洗う。つまり手は年輪である。関係を断つのが足で、関係を作るのは手である)