他人の世界についてとやかく言えるほど皮膚の壁は薄くないぞ


ぼくは人を信じないし、基本的には話したくもない。友の輪が狭いと言われようが興味のない人と話す必要はまったくないように思う。

だから輪を広げようとし続けるSNSを具体化させたような人間の主張はつらく、そういう人に限ってお節介だから一度絡むとめんどくさい。

世界が狭いやら、内向的やら云々、たまに言われるが、他人の世界についてとやかく言えるほど皮膚の壁は薄くないぞ、ぼけ。

一人の人間を放っておくことがそんなに怖いことか。なにをおそれている。安心してくれ、きみとぼくは別の人間だ。

たとえ、ぼくがきみとは相容れない生き方を選んでいるとしても、それはきみには全く関係のないことであり、きみを否定しているわけではない。

ぼくはきみではない。これをしっかりと受け止めたほうがいい。ぼくときみは「ぼくら」に集約されて群れになることもないのだ。同じ時代、同じ年代、同じ国、そんなのは嘘っぱちだ。人間と人間はその程度の絆で群れになることなどないのだ。

ぼくときみは他人同士である。ぼくはこの境界を下手くそに爆破しようとする奴らが嫌いだ。

先日、動物と人間が分かり合えるというような話を聞いた。笑いが止まらなかった。分かり合えるわけないやろボケ。確かに分かり合えるような瞬間はある。しかしながら、それはただの思い違いである。ぼくはこれを奇跡と名付けている。分かり合えないものたちが分かり合ったような気持ちになる、これが奇跡でなければなんだろう。もちろん、皮肉でいってるわけじゃない。

奇跡は当たり前に起こるし、当たり前に起こらない。しかしながら、それをさも当たり前のように話すきみに問題を感じる。なぜか、それはきみが他の生物(人間も含める)の世界を自分のちゃちな掌で受け止めていて、しかもそれが漏れているにも関わらず、気づいていないからだ。

人間が人間と分かり合えるらしいのも、当たり前に起こらないし、当たり前に起こる。なんども言うけどぼくときみは別の生物なのだ。だからこそ、分かり合えるらしいのが奇跡なのだ。喜ばしいことなのだ。

すべての人間は分かり合えないだろう。すべての人間と分かり合う必要もないだろう。だからこそ倫理が稼働するのではないか。

違いを軽視するような独善的な奴らに倫理があるとは思えない。皮膚の壁は倫理を要請する。わかるか、ぼくの血ときみの血がひとつの心臓によって稼働するすることはありえず、身体が繋がることはありえない。前にはは皮膚の壁がはだかっている。実は皮膚の壁と皮膚の壁が擦れ合う度に、人間はぬくもり以上に繋がることのできない、切なさを感じている。

ぼくときみとは他人同士だ。繋がりあうことは到底ないけど、そう錯覚することもある。それをぼくは奇跡と呼んでいる。それがぼくにとっては絆であり、友であり、恋人である。彼らはいわずもがな各々、他人である。

人間以外の視覚的情報をともするならば、中身の見えない瓶と瓶がくっついている様子。つまり、恋人同士がデコとデコをくっつけあっている様子。口から吐く風は懐かしく異国である。