ふと思うことがあり、自分のしたためた書き物を読んでみた。とんでもなかった。これでなにかを作ったような顔をしていたのかと思うとちょっと悲しくなった。こういうことは度々ある。たとえば、誰かの詩集やらを読んで、この程度のレベルかと思う。まだ自分が作ったもののほうがましにおもえる。自分のを見返す。うわ、となる。べつに書き物で食おうとしてるわけではない。でも、自分の作ったものが想像以上にクソだったら悲しくなる。

今回は出来のいいものを集めて何かに寄稿しようとしていた。ロクナモノがない。一年以上、タブローに溜続けているが、一つもいいものがない。惜しいものはあるが惜しくても出来上がっているものなので手が加えられない。

ぼくのような人間は何かを作らない限り満足できない人間なのだろう。そしてそれが素晴らしいものであって欲しいと望んでいる。だれかのを見て満足できる人間であったなら、もっとましに生きれたのに。

一か月前の心境と今の心境は異なるから、読んでいて違和感を覚えるのは当然のことだろう。本来であれば、また作ればいいだけの話なのだが、肝心の情熱が湧かない。書きたいことがないので真摯に取り組むこともできず、書きえる可能性が溢れすぎて言葉が溺死していく。

そういえば、本も読んでいない。哲学書に至ってはもっと読んでいない。情熱がないから取り組めない。現状、何も残せていないことが悲しい。それでも一抹の光が心に湧いているのはなぜだろうか。今までも沈黙する期間から一気に浮上することはあった。しかしながら現状このざまである。それなのに何を期待しているのだろうか。ただの楽観かもしれない。

実を言うと、東くんのそうめんを見てからよりひどくなった。

どれだけ服を買おうが満足はしないだろう。退屈と戦えるのはそんなものじゃない。それを知っているのにぼくは何も作ろうとしない。