死に対して永遠を対置した文学がアンチクライマックス文学だと簡単に言ってしまえるのかもしれない。
例えば、世界を破滅させようとする悪の軍団から世界を守ろうとするヒーローもの。大衆映画やアニメは主人公のボルテージと世界の命運が完全に一致する。だから、こう言うことも出来る。そういう設定にしなければ観客を集めることができないのだと。大衆は世界が終わることを望んではおらず、最終的にはヒーローが世界を救うことを望んでいると言うこともできるだろう。しかしながら、映画の世界が何者かによって救われなければいけないような危機的状況でなければ、観客は集まらないのだ。完全に不感症である。世界の命運をかけた争いでないと興奮しないのだから、不感症である。
アンチクライマックスはこういった不感症者たちの望む作品に対して退屈やだらだらを通して大衆的な起承転結を拒絶しようとした。
というのが、アンチクライマックス文学の社会的な文脈になるのかもしれない。個人的にはアンチクライマックス文学というネーミングがあんまり気に食わない。なぜか、あらゆる作品をアンチクライマックス文学で包括するのは無理だろう。社会的な文脈以上に個人的で生活にそくした文学であるからだ。それについて述べたいが今は無理なのでやめておく。
さて、アンチクライマックス文学はオチのない文学として称揚されてきたのは間違いない事実であろう。この場合はオチのないとは終わりのないという意味である。で、ある勘違いをした人たちは終わりのない文学が素晴らしいものであると今でも考えたりしているらしい。彼らを勘違いをした人たちと指しているから察しがつくと思うが、終わりのない文学が素晴らしいなんてとんだ勘違いだと、ぼくは強く思う。
物語は終わるのだ。終わってないように見えているかもしれないが、その物語は終わっている。作者がそこで筆を止めたのだから終わっている。それがたとえ、大衆的なオチがないものであったとしても終わっているのだ。オチ=終わりではない。
オチがあろうがなかろうが、物語は終わるということである。オチはあってもなくてもどっちでもいい。