無意味に対する賞賛に対する苦言


先日、ブコウスキーの探偵小説、パルプを買った。解説やらが二つ付いていて、その内の一つがあまりに不快だったので千切ってしまった。この本から意味を見出すことは無意味であるという一文がその破ったページに書かれてあった。


『おれは死という名の淑女と宇宙人の間に挟まれている』というような一文がパルプのなかで語られていて、ぼくはひどく感動したのだ。こんなにも簡単な言葉回しでこんなことが言えるのかと。パルプにはブコウスキーの顔が浮かび上がっている。


どんな文章であっても、落書きであってもそれが作者の顔を浮き彫りにする。と、それが稚拙であれ優秀であれ、ぼくは思っている。作者はその意図を認めないかもしれないが、意図するかせざるかは問題ではない。確実にそのときの気分やら躍動、作者が飼っているものが提示されていると思う。


それを無意味であるとルサンチに決め込んで投げ捨てるようなやり方は思考の放棄であると考えている。思考とは考えること、感じることの間で生まれるものである。


また、読み手が勝手に解釈することも読書の醍醐味だろうし、作者の意図を考えることと同じくらい大切なことであり、むしろ乱暴で勝手な解釈が新しい解釈を生むと思っている。


それなのに解説側の人間が無意味であると、言い捨てることに疑問を抱く。賞賛のつもりか何だか知らないが、正直ダサいし、そんな奴が本を読む資格があるのか。もちろん本を読む資格なんてないから、本を読む覚悟があるのかと置き換えても遜色ない。


意味を求めるのは人間の性だ。ただの数字の配列も人間にとっては意味に変換される。それに対置して無意味という概念がもてはやされたが、そんなもの遥か昔の概念である。全てのものは無意味だろう。無意味で美しいだろう。そして、そう考えることさえ無意味だろう。無意味であるから価値が見出されるのだろう。無意味の概念が否定したことは、意味の鋳型に豊穣な可能性を封じ込めるなということだとぼくは思う。


意味の鋳型とは、既存の解釈である。オイディプス的な解釈である。全てを家庭の問題として解決しようとしたらしいオイディプス的な解釈である。逆に言えばオイディプスオイディプス的な解釈から解き放つことが無意味という概念が叩きつけられた理由なのではないか。


ぼくは無意味に対する賞賛を嫌う。逃げるな。闘え。逃げることと闘うことは似ているだろう。しかしながら、この場合はこの二つは全く相容れない違いである。


ありきたりで真新しい退屈と闘え。ブコウスキーは小説を書いた。