無能な神様と欲深い人間

コオロギがベランダで鳴いている。こいつは律儀に玄関から入ってきた。あー玄関で鳴いているなあなんて思っていたらいつの間にか部屋に上がってたみたいで、夜中の3時ごろにやかましく鳴き始めたのでベランダに放した。それから数日経つが、まだベランダにいる。

少し寒くなった夜を求愛の羽音を鳴らせながら越えるコオロギ。だれかいたらいいね。でも、ここは二階である。一体だれに向けて鳴いているのだろう。アパートの下にはたくさん他の奴らがいるだろうに、どうしてお前はここに来たのか。でも、ほんとうだれかいたらいいね。

飯は何を食っているのだろう。心配である。壁の下を這って隣の部屋にも行けるだろうに、なんでおまえはここで鳴くのか。もしかしたら、昼間はべつのところに行って夜になると戻ってきて鳴き始めるのかな。だとすれば、なお、なぜここで鳴いているのだろうか。


教習所の便所にコオロギがハマっていた。ぼくは便意を堪えて丸めたティッシュでそいつを掬った。もう一匹羽虫が浮かんでいたが、そいつは既に死んでいたので糞と一緒に流した。

土に還してやろうと一瞬思ったが、死ねば終わりよ。蜘蛛の糸は生きる者にしか届かない。もう少し生きてれば生きられたかもしれないが、そんなこと言っても仕方ない。それがいつやってくるのかなんてわからないもんだ。来るまでもがくのか、祈るのか、いずれにせ生きていなくてはできない。

奇跡的にコオロギは生還した。奇跡的にと言っても道端に落ちてる石ころを拾うくらいのちゃちな奇跡だ。奇跡なんてちゃちだ。どこにでも落ちてる。どこにでも起きる。ちゃちな奇跡の集大成が人間だ。たまたま生きている。たまたまが奇跡でちゃちでどうしようもなくありふれた奇跡である。


話が脱線したが、コオロギをたまたま助けた夜にコオロギが玄関へやってきた。たぶん、別のコオロギだろう、と思いながら届かないロマンについて考えた。

コオロギは鳴くことしかできない。人間に惚れたコオロギは同種にそうするようにぼくにも鳴くことでしか愛情を示すことができない。ぼくはコオロギのメロディを愛であると受け止めることはできない。せめて愛かもしれないな、と耽ることしかできない。愛のメロディであっても間近で聞くとほんとうにうるさい。

コオロギのメスは泣かないらしいから、あいつはオスでホモなんだろう。性別以前に僕らが心を通わすことなどないのだから、コオロギが人間のオスであろうと豚のオスであろうと問題ないだろう。雌雄の問題はほとんどモーマンタイである。


コオロギは慰めてくれているのだろうか。頭から汁を垂らせながら貪り掻くぼくに秋を届けてくれてるのだろうか。まあそんなことどうでもいいか。たまたまそうなっている。たまたまそうなっているから、明日にここを離れることが決まったら、しっかりとさようならをしなくてはいけない。

勘違いでもやるべきことだろう。あいつがぼくが好きで鳴いているのだとしたら、いるはずのない相手に向かって鳴き続けることほど空恐ろしいことなんてないだろう。哀れで惨めで、忠犬ハチ公なんてたまったもんじゃない。

言えるならさようならとしっかり言ってやるべきだ。伝わらなくても。そういえば、いなくなったのかと後から気づくかもしれない。葬式みたいなもんだ。死人におまえは死んだって言ってあげなきゃ、惨めだろう。そいつは死よりも長い時間、聞こえもしない声で好きな人に語りかけるんだから。哀れだ。


明日は卒研である。一発で通ったらいいねと教官からお祈りされている。確かに通ればいいね。ぼくもそう思う。もしかすると通るかもしれない。だから、今日は自転車に乗ってフラフラしてみた。神社をいくつも通り過ぎた。お願いについて考えてみた。自分なら何を願うか、願うわけがない。

とつぜん、『おい、邪魔すんなよ』と願うおじいちゃんの姿が頭をよぎった。邪魔をすんなよと願ったところで、それもお願いであることに変わりない。でも、かっこいいなと思った。おじいちゃんの意思がお願いという枠を貫くような勇ましさ。二項対立には収まりきらない膨張というか。


ぼくの祖母は熱心な真言宗の教徒である。お参りの際は、いつも住所名前生年月日名前、誰の息子かを言わされた。で、いつも思っていた。神様というやつはどれほど無能で、人間はどれほど欲深いのだろうと。願いだ。ぼくは口で願い事らしきものを言いながら「お邪魔します」と挨拶をする程度にしか熱心になれなかった。 そんな酢えた子供がいまこうしていい年になった。あの頃の自分は間違っていないと今でも思っている。

祖母が信じているらしい神とやらよりも、もっとちゃちで道端に落ちている石のようなありきたりでありふれた奇跡を適当に起こしているのが神なんだと思う。だから願う必要などハナからない。勝手に蜘蛛の糸が垂れてくることもあれば、垂れないこともあるだろう。もしも、ぼくがお願いをするに至るならば、命をかけて他人について願うだろう。ぼくは決してそれを願いとは言わない。祈りと呼ぶ。