生きるらしい


生きるだけで金がかかると祖母に言ったとき、『その通りや!』と祖母は言った。祖母が二回出て来た。どうにか一行にまとめれないだろうか。

生きるだけで金がかかると言ったとき、『その通りや!』と祖母が言った。よし。そんな祖母がアルツハイマーにかかってしまった。兼ねてから、徐々にではあるが進行していたアルツハイマー脳梗塞を機に一気にアクティベートしたらしい。

祖母は別の世界にもいるのだろう。一言一言大切に言葉を堕ろす。今に向かって過去やら想像やらが入り乱れるのか、超現実な話を始める。

担当医師であったはずの男が突然、北野高校出身になったかと思えば、その男は親不孝ものでタイプライターばかりいじっているのだと言う。それを見た両親の気持ちを考えたとき、祖母は胸が痛くなるのだそうだ。で、言ってやったらしい。

「あんたなア、折角頑張って北野高校の10人の中に選ばれたのに。何してんのン。お母ハンもきっと喜ばれたろうと思うで」

きっと同一人物の話ではない。その医師が喚起させたのが北野高校出身のタイプライターで親不孝者の男なのだ。そもそも祖母にとって同一人物かどうかは問題なのではないのだろう。

自由な語り部に見える。しかし、とんでもない重力を感じる。過去なのか、それすら想像なのか。どちらとも断言できないだろう。祖母は想像によって医師とタイプライターを結び合せ、タイプライターは恐らく想像によって結びつけられた過去の断片なのだろうから。祖母は今、語っている。だから、今、起こっていることを話しているのだ。

祖母は優しい人だ。あんなベランベぇな顔見たことがなかった。アルツハイマーが進行すると暴力的になると言われる。実際、ぼくもその現場を見ているが、どうだろう。あのとき、ぼくらはぼくらの現実を押し付けすぎて除け者にしたから、あの人は暴力に走ったのではないか。狂人のように扱われれば、誰だってそうなるんじゃないか。理性は平衡機のうえの水とは反対へ流れる。理性は他者と自分とをフラットに保とうとする働きなのではないか。アルツハイマー患者に理性がないなんて可笑しな話ではないか。必ずしも理性は社会に従わないだろう。

自分の見ている現実が頭ごなしに否定されれば誰でも怒る。ぼくらの社会が必要以上に要求するコミュニケーションは人間と人間の隔たりでさえ簡単に忘れさせようとする。


生きるには金がいる。祖母はその通り!と教えてくれた。生きるには金がいる。金を稼ぐ必要がある。考えるだけで嫌になる。で、本業とは何か、と考える。別にないのだ。ただ生きるだけがこんなにも難しい世界だ。いっそヤフオクで自分の一日でも売ってみるか。売れたらいいけどな。日当一万円でな。暇なうちにやってみるか。

それはさておき、リサイクルショップにでも就職しようかと思っている。これ以上いらないものを増やす仕事はしたくないし、古物好きやし。独立するとすれば、ブリコラージュ的な店をメインにするしかない。流通経路も、流通確保の方法も知れるしいいんじゃないかな。