ある写真への応答

ここに一枚の写真がある。わたしは撮影の現場に立ち会った。撮影者、わたしを含めて四人がその場にいた。

コスモスの群生、飛び火、ブルーライト、夜、駐車場。

夜に放たれるブルーライトは心を騒めかせる。自殺や犯罪の抑止を謳われることもあるが、あれは心を和ませるというよりは暗くするのに一役買っているのだろう。自殺や犯罪すら思いつかないほど暗く。

灯を浴びたコスモスの群生は怪しげで美しく、物悲しかった。一角を象るように生えた群れから飛び火したコスモスもあった。群れであって、群れでないコスモスを照らすブルーライト

シャッター音が鳴る。風景が画面に収まり、数日経って一枚の写真が投稿される。写真を見て驚いた。そして、一つの言葉が過って腑に落ちた。

後日、その投稿にコメントを残した。あのときに、決して重ならないわたしたちを包んでいたものは幽玄であると。

すると、返信があった。

ぼくらは少し重なったのではないかと。

彼は最大公約数を射抜く作家だと感じた。彼の特筆すべき能力の一つであると思う。ここに重なると重ならない相反するものが二人のコメントから生まれている。わたしは重なるの代わりに包むという言葉を使っている。わたしのイメージとしては一人の人間は輪である。そして、この輪と輪は重ならない。だが、彼の場合、輪と輪は重なるのだ。大きな違いである。わたしは輪と輪は重ならないと考え、光はわれわれを包むと形容し、それが幽玄であると明かした。

それからしばらく経って、ある哲学者同士の対話を聞いた。そこでは輪は楕円として考えることが奨励されていた。輪は一つの中心からではなく、二つの中心から成り、その形は楕円である。とのこと。

一つの中心は自分であり、もう一つの中心は他者以前の他者である。特筆すべきなのは他者とは言い切れないということである。どういうことだろうか。楕円として一つの輪に二つの中心が収まる。収まっていいのだろうか。そもそもそれは二つでなければならないのだろうか。

わたしにとって輪は限度である。つまり重なってはいけないものである。輪とは違いである。それが重なってしまうということは違が同に還元されてしまうということである。しかしながら、どうだろう。

これは同への還元なのだろうか。人それぞれの間に社会が炸裂しているとすれば、同が別のところへ行っても同になるわけではない。つまり、この同はある人間同士の間だけで結ばれる縁なのではないか。

そもそも同が同であることなどあり得ないのではないか。それがあり得てしまう世の中だから恐怖や気持ち悪さを感じてしまうのではないか。クラブミュージックが同の音楽としてあるような社会が気持ち悪いのは、同を無理やり強制されるからではないか。そして、それを無理やりだと感じる自分がいるからではないか。同を縁という言葉に置き換えると、そのひどい様があらわになる。関係のない縁を押し付けられる感覚とそれを押し付けて感じてしまう感覚。

まとめよう。輪と輪は重なるとは言い切れないが、重なったような感覚に陥ることがある。それが縁である。本来、縁は他の人間同士の間では共有されない。

ここで、また自分の言動とぶつかる羽目になる。最大公約数を射抜くとはどいうことなのだろう。それを述べるときにまず、太陽というイメージが過った。わたしたちを包む最低限度の灯としての太陽。このイメージと対立するのは星の灯である。満月の日にこの灯は消える。そして、月のない夜、満開を迎える。太陽を射抜くことが最大公約数なのだろうか。いや、違う。灯から降る光子を射抜くことだ。その射抜かれた光子こそわたしたち四人の最大公約数としてある縁である。と、わたしは今、思っている。で、それをわたしは幽玄と呼んだわけであるが、あくまでわたしの話である。つまりは縁をもってしても、われわれは別の印象を抱いている。

そもそもわたしはブルーライトを鎮静作用をもたらすものと考え、鎮静作用の最たる効力は人の心を暗くすることだと考えていた。人によってそれも変わるだろうし、ブルーライトに主を置かないものもいるだろう。

決して重ならないという言い方は正しいが、それを誇張するとぼくらの間に生まれたものを表現することができなくなるどころか、初めからそんなものは存在しないというような主張に直結し、硬直する。分かり合えなさを梃子に人と人との違いを還元してしまわないように設定するのも大事だが、それを根拠に関係の不可能性にまで言及するのはあまりに現実離れしていて、相当に危ない。