インスタ

インスタをしている。基本的にはキキちゃんと2人でやっている。ほとんど自分の格好を記録するためにやっている。当初の目的はそれプラス、一つのアカウントを多数で運営するのが目的だった。というか、それが主だった。

一人は一人であり一つの目から成る。それが複数集まれば、人数分だけ目が生まれる。また、その複数がぼくとは別のコミュニティに属しているから、タイムラインに他人が出てくる。いわば、ぼくは他人の内輪話に参加させられる。それに参加するかどうかは別として。

そこにおもしろさを見出した。それぞれのコミュニティ、装い、全く関係のない人間たちとは言い切れない知らない他人たちと同居するようなSNS。私物とは言い切れないアカウントをそれぞれ個人的に行うようなアカウントに憧れていた。自分とは別のものが勝手に更新しているにも関わらず同じアカウントであるということ。

匿名の人間によって寄稿される雑誌みたいなのをインスタではしたかった。今でもそうなればおもしろいとは思うが無理なので、個人アカウントへ切り替えようと考えている。というか、現状がそうなのでそのままか。

今まで通り、基本的には、はキキちゃんと会っているとき、自分の格好を投稿する。ぼくは自分の格好に興味があるし、自分の写真集が欲しい。これはナルシズムじゃない。近くて遠い自分が気になるのだ。

今と過去が直線的に繋がっているような感覚がぼくにはない。断片と断片で一時的に接続されるようなことはあるだろうが、ぼくがぼくであり続けたことは一度もない。ぼくという固有名詞があるだけだ。固有名詞を嫌悪しているわけじゃない。不思議なのだ、この不正が。ぼくがぼくであり続けるという不正が。ぼくという固有名詞がなければ書くことは愚か、話すという感覚さえなくなるだろう。つまり、名を持たぬ人間は人間でなく別の生を全うする。

ぼくという最低限で揺らぎやすいが、決してボヤけない輪郭がぼくを人間とたらしめている。風を感じよ、と人が言う。厳密に言うなら、風を感じている身体を感じろということで、風と肌を隔たる我を知れということである。ぼくらは皮膚によって、中身を保持しているそれが解けるとどうだ。ぼくらはぼくを失い、全体へ溶けてしまう。つまり真の意味でぼくらになってしまうということだ。

インスタグラムは自分が自分であり続けることの不正を感じながら、首の皮一枚で繋がる主語を大切に思う気持ちから稼働している。それにわかりやすいだろう。ツイッターよりも自己紹介に適している。どんな投稿でさえも利用者の思惑が伝わる。

当たり障りない投稿とも、オシャレを心がける投稿ともぼくは無縁である。ぼくは生活を投稿している。ぼくは不正まみれのぼくを投稿している。だから、撮るときは毎日、その時の自分が好きな格好をしている。それにキキちゃんにも申し訳ないじゃないか。寝巻き姿で会いに行ったりするのは。