視線の権利

デリダの著作に『視線の権利』なるものがある。読んでる途中で狂った。あんな怖いものをよく書いたなと思った。怖さのなかに法悦のようなものを感じつつ、古い記憶ながら二度と読みたくないと感じたのを思いだす。

視線がわたしを捉えるとき、知り得もしない方法でわたしは何かへ変形させられる。わたしもまた視線を他人に投げ、他人を捕まえる。視線は暴力だ。視線はわたしを不自然にする。わたしを硬くする。恥辱で動けず、自由を奪われる。他人の目を浴びる、この不快さ、この恐ろしさ。

視線は原初の暴力として我々に設置される。見ること=捕獲といっても過言ではない。しかしながら、いくら見たところで何をも捕獲できない。わからなさのあまり息が詰まる。考えただけで吐き気がする。見ることも見つめることも!他人の存在が過剰すぎる。理解するにはあまりにも過剰である。

存在すること自体が過剰である者が放つ視線を浴びること、このどうしようない、どうしようもないどうしようもない吐き気。わたしは隠れたいこのどうしようもない、このひらがなの疎ましさ、漢字の硬さ、このすべてを、いや、この。手の動き、親指の気持ち悪さ、あーわたしが放つ言葉、わたしという仮の一人称さえ、眼に映るすべてのすべて、どうしようもない!

なんて自分の放つ日本語は汚いのだろう。バランスが悪いのだろう。漢字とひらがな、語呂、ニュアンス、接続詞