手段としてのファッション

コラージュしているとき、完成させたくないなとよく思う。マグネットみたいに付け替えできたらいいなあとか考えるが、作った以上は形がほしいので完成させてしまう。

コラージュしていると、とんでもない物語が生まれる。位置を変えれば、その物語に拍車がかかったり、物語は死んで、別の物語が始まったりする。既成品の衣摺れによってコラージュは物語を生んでいく。絵画とは異なる手法ではあるけど、コラージュもまた物語を孕ませる手段である。

服装もコラージュの一種だと気づいたのは今日だった。白紙の代わりに身体があり、写真の代わりに服がある。服は絵の具ほど自由ではないし、身体に特化しているが、身体に巻きつければ何だって服になる。それに往来のコラージュと違って装いは、着脱可能である。当たり前の話だが、気に入らなければ脱げばいい。ぼくが望んでいたマグネットのようなコラージュとは、実はファッションのことだったのだ。

ここからはファッションと装いについて述べていこうと思う。

まずファッションと装いの違いを定義しておく。装いとは、服装がある集団への帰属を表す服装を指し、ファッションとは服装がある集団への帰属を表さない服装である。制服と私服のような違いだと認識していただければ。

次に西洋式ファッションの身体は上半身、下半身、足がキャンバスとなっていてシャツ、パンツ、靴がそれぞれに充てられる。実際は貫頭衣と裸足、着物と草履、腰巻等あるので、服装の身体は何種類かあり、裸にタトゥーと装飾品だけの服装もあるが、今日支配的なのは西洋式である(支配的な振る舞いをしている)

で、服装がファッションとなり得たのは最近の話。未だ百年も経っていないのではないか。何年にファッションが成立したかを問ても線引きはできないだろう。徐々にファッションが拡張していったとしか言えない。人類史を俯瞰しても長い間、服装は集団の帰属を表すものにしか過ぎなかった。つまり装いだったのである。集団によって使える色、素材、図柄があり、視覚によってその人が何者であるかを認識するシステムが装いであったと言える。今でも、装いは世界中で制服として散見されるし、実はファッションのふりをした装いが街に溢れかえっている。つまり私服と名付けられた制服が街に横行しているということ。

なぜ私服であるにも関わらず、みなが制服を着ているのか。集団への帰属が無効になった時代でも、人間は帰属を求め、共感を求めているのだ。流行という化け物はその欲望を叶えてくれる。流行にさえ従っていれば、はみ出すことはない。つまり服装は未だ装いから抜け出せてはいない。これは多くの人類が望んだ結果だ。ファッションを楽しんでいるものは数少ない。

また支配的な流行と逆行する形で、ある帰属を強く表明する集団もいる。例えば、流行りか知らんがペラペラのレザーなんて着ないぜ。おれはパンクだからライダース以外着ないのだ。みたいな人である。こういった人たちも流行と対立しようとする点からして、流行に左右されているのでファッションを楽しめていない。どれだけ素晴らしい制服(ライダース)を手に入れるかしか考えていないから、ますますパンクの鋳型にはまっていき、不自由を強いられる。

流行をまとう人も、まとわない人も流行に踊らされている。ミーハーもオタクもファッションを楽しむことはできないだろう。自由になったんやから、ファッションを楽しもうぜ。一番身近な芸術やのに!

ぼくは同じ服装をあんまりしない。その都度新しいファッションを取り入れて創造し続けている。それをカメラに収めて日々記録している。記録してべつの格好をする。記録することは糊をつけて紙を貼るのと同じである。近頃はめっきりコラージュしなくなったなあと思っていたが、実はコラージュばっかりしてたみたい。流行もアンチも無視して、勝手にやってる。勝手にやるのがコラージュの原則だと勝手に原則にしてる。