箕面へ行った。なんていいところだろう。住んでる所から一時間もかからなかった。 阪急電車はほんとうに良心だ。京阪電車も見習ってほしい。地下鉄もそうだ、JRも。ぼくは京阪沿線が嫌いだ。阪急の宝塚線は懐かしくてたまらない。エイジングされた臭いがある。穏やかだ。生駒方面の穏やかさとはまた別の穏やかさがある。

電車が淀川に差し掛かったときに見かけた水浴びをする家族連れが頭に残っている。十三の手前だったか奥だったかわからないが、なんか楽しそうでお母さんはオレンジのハイレグを着ていた。 山道の脇に本屋があったので立ち寄った。本を買う気などなかったが、気づけば5冊ほど抱えていた。ぼくはもう満足して、山あいを少し歩いただけで、家に帰った。

カポーティ、ロアルドダール、ガルシンサローヤンの著作を抱えて家に戻った。久しぶりの小説だった。読むに連れて嫌悪感が湧いてくる。むかしはどんな本でも、しばらくは堪えれたのに、今となっては一行目で投げるものが多くなった。自分がなにを読みたいのか知っているからそうなるのだろう。要らない本は身体が受け付けない。そんな余裕がないのだ。いつも身体には迷惑かけてるから休日は身体の言うことに従っている。

買った本の五冊中四冊は読めなかった。いやに嘘くさく見えた。修飾語が大袈裟に見えるし漢字が多い。あまりに素直じゃない本ばかりで気が滅入り、吐き気を催すものもあった。唯一、サローヤンの『君の名はアラム』だけはするすると読めた。身体に浸みた。 サリンジャーよりもマイルドで、サリンジャーよりも語らず、サリンジャーよりも力が抜けている。一言で言えば品がある。ひらがなとの塩梅がよく、さすが柴田元幸、いや柴田元幸先生グッドジョブと声に出して言ってみる。

ぼくも詩を発表しないといけないなと思った。地味でちんけな場所でも出さないと誰も見ない。ブログには登場させたことはないが、実は結構書いているのだ。 ヘンリーダガーに憧れていた。でも、へンリーダガーになれなかった。ヘンリーダガーより寂しがりなのかもしれない。ヘンリーダガーより人間が好きなのかもしれない。ヘンリーダガーより社会的で欲深いのかもしれない。ヘンリーダガーのように潔くはなれない。ぼくは天使ではなかった。あんな悲しい場所にだすのは嫌だし、なにを出せば良いのかすらわからないけど、まあ全部送って、楽になりたい。ぼくは貯蔵庫ではない。

そのあと、友人と飲みに行き、服の話に耽った。ぼくはアメ村という空間の未来を憂いでいるらしい。だからぼくはアメ村にアジールを作らないといけないと思っているらしい。だから古着屋と図書館をしないといけないと思っているらしい。 だれかのアジールが街から姿を消していく、そんな時代に生まれた。街は優しさなど露ともみせず、人間を魚みたいにぐるぐると定置網で回遊させ、消費を促すよう語りかける。ぼくは、その網を切ってきいたい。安らぎの場を作らないといけない気がしている。泉に人が集まるよつに安らぎを人は求めている。帰路につきら、ベートーベンの喜びの歌を爆音で鳴らした。あの曲には常世のような響きがある。あの曲は決してこの世の歌ではない。『おおお友よ、このような旋律ではない。もっと心地よいものを歌おうではないか。』

『そうだ、地珠上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ。

そしてそれがどうしてもできなかった者はこの輪から泣く泣く立ち去るがよい』

逆説的にはなるが、輪から立ち去ったものにしかこの歌は響かないのではないか。