釣り人と魚とサーファーとダイバー。インスタグラムにおける考察

以前、インスタグラムで釣りをした。露骨な罠だった。真っ白の画像にハッシュタグをつけただけの、ごく簡単な投稿。獲物は簡単に釣れた。彼らは獲物であると同時に釣り人でもあった。だれも写真なんて見ていない。記号にいいねが重ねられるだけのとんでもなく虚しい世界だ。いいねを付けた人間のところへ行ってみる。いいね自体も釣り針だった。釣り人は魚であり、魚は釣り人でもあった。

久々に妹に会ったとき、インスタについて話した。妹は友人といいねを幾らつけられるか競争していた。ビキニ姿の写真を載せて、ハッシュタグをつけまくりいいねを稼ぎまくっているそう。いいねを返したり、誰かの投稿を見たり、それで誰かに憧れたりはしないそうだ。妹はケラケラと笑いながら沢山いいねの付いた投稿を見せてきた。

明日、インスタがなくなろうがどうでも良いらしい。だから、いいねが幾ら増えようが、人気者になったという気概はまるでない。インスタは遊び道具の一つにしか過ぎないそうだ。

妹はインスタを信用していないし、5代目のコンサートへ行きながらべつにファンでもないらしい。学校の宿題は絶対にしないし、留学へ行くのもノリである。妹からすれば、学校も社会人もフリーターもいいねもハッシュタグも流行りも廃りもどうでもよいらしいのだ。流れに身を任せてサーフィンをするだけ。意味やら歴史やらそういうものにはてんで興味がない。波に乗っかりながら波すら信用していないサーファー。 レヴィ=ストロースから西洋人を引いてしまったようなやばい奴だ。ニヒルを完全に超越してる。ノリだけで生きている動物みたいな世代。おもしろそうな世代だなあ。

まあ、そんな化け物みたいな下の世代の煽りとハンコ文化みたいな上の世代の間に生まれた90年代そこそこの世代は、その間で宙吊りになって悲鳴をあげるしかないなんて情けない話だ。ぼくが幾ら時代を嫌悪したところで、91年生まれであることに変わりはないのだから。時代的なものが肌に染み付いている。 カートコバーンの悲鳴が耳に焼きついてる。だから、海の深くへ潜ったり、ときには水面へ顔を出したりしながら、バブルリングと人語の間を揺さぶり、釣り人や魚をバカにしたり憧れたり、サーファーのボードに頭をぶつけられたりしながら独特の声をあげよう。せめて誰かが聞こえるくらいの音量と意味で。