それよりももっと甘美なるものを

『おお友よ、このような音ではない!我々はもっと心地よい、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか』

歓喜の歌は否定から始まる。唐突な宣言とともにメロディがはちきれ、全能たる世界が顔を覗かせる。この世界は満ちている。あらゆる力が漲ってくる。身体から迸ったオーラが歓びへと炸裂する。まるでその様子は身体が血の花を咲かせるような光の破裂を思わせる。身体はただの輪郭であり、身体中には電光石火の光が駆け巡る。名指されたものから次第に爆ぜるように、次々に身体が爆ぜるのだ。

そもそも一つのメロディを奏でるために、何人もの人間が集まっているのだ。歌を奏でるためだけに集まる、まるで採光性の生き物みたいだ。何もクラシックだけじゃない、あらゆる所、あらゆる人々はそうやって歌を奏でている。

奏でるとは、メロディになるということはどういうことなのだろう。協奏曲というのは不思議なものだ。一つのメロディを奏でる、幾多のものが一つのメロディを構成する、このありえなさ。

間違いない。人間が今を超越するために歌は生まれた。

『そうだ、地上にただ一人だけでも

心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

そしてそれがどうしてもできなかった者は

この輪から泣く泣く立ち去るがよい』

この輪から立ち去った者もいる。笑いながら、苦し紛れに、泣きながら去った者たち。で、わたしは思うのだが、歓喜の歌は立ち去った者にしか届かないのではないのか。その者たち、その者たちこそ人間である。