可能態

ぼくは今、ぼくの持っていた未来のなかのどの未来にいるのだろうか。ぼくはどの可能性を殺して、今に至るのだろうか。生まれ持ったときに持っていたであろう可能性をどれだけ殺してきたのか。先天性の話をしているのか、可能態とは先天性の話だ。でも、ぼくは先天性の話をしているわけじゃないのだ。もっと些細だ。殺された未来の話をしている。本当に些細なことから塵も積もれば山となるというか。ぼくは過去の塵の山だ。一面的にはそれは事実だから仕方ない。

叶わなかった、選べなかった、選ばなかった可能性というものが輝き出したりするもんだ。叶わなかったからなかったという話でもないんだな。そいつは、どっかで育ってるわけだから。ぼくはそれを少し垣間見ることができる。ただの妄想かもしれないが、涙が流れたりするもんだ。

出会い損ねてきた人生だ。おれの人生はいつだって狂ってる。まともなふりしたってまともであった試しなんてない。ぼくはまともじゃない。それに自覚的であるからまともなふりもできる。おれの人生は狂ってるのに、おれは本当に狂ったりしなかった。おれを狂わせるものはなかった。おれは一ミリも狂ったことはない。おれを狂わせるほど熱量のあったものはなかった。狂気は砂漠の夜のように溶けちまう。

おれはどこまでも観光気分が抜けない。おれにはない。おれはずっと考えている。今の素晴らしさ、ありえなさ、憤りについて。おれは考えているんだ。歩きながらも作っているときも、風呂へ入ってるときも、どの瞬間もどの瞬間もおれは考えるために何かを行なっている。考えてどうなるのかと聞く。どうにもならない。楽しいのだ。ぼくは考えるのが好きだ。盲滅法にぼくは永遠とコラージュをして、色んなことを考えている。作ることは考えることだ。何にせよ、ぼくは考えている