左ききのエレンと右ききのソウシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

左ききのエレンと右ききのソーシ

わかる。ある人間が左ききであったとき、未だ何も始まっていないのに敗北感を味わうことがある。あれは容姿が優れているとか、髪の毛が綺麗とか足が速いとか、そういった類の憧れから始まる敗北感ではない。A型がAB型に憧れるよりも、もっとも以前的な生後初めて気がつく、差異の痛感、いわば原初的な差異と言っても良い。

大人と子供、女と男、ぼくの場合だけかもしれないが、大した差異ではなかった。だが、地毛の色が違う、左ききである。というような差異に、当時のぼくはとても敏感だった。今となっては髪の色なんてどうでもよいし、髪の毛は染められる。でも、利き手だけはどうしようもない。何か特別な理由がない限り、ぼくは永遠に右手を利き手として生きていく。なんか悲しいけど、べつに悲しくともなんともないけど。

悲しい話、左利きを右利きに矯正する親は多い。手は右なのに足は左とか、書くときは右なのに投げるときは左とか。『ほんまは左ききやねん』と友人が言うたびに、実は貴族やねん的なかっこよさを感じつつも少しの哀しさを感じていた。

左足でドリブルしながら、右手で宿題をするようなイメージ。とても忙しいような気がした。休む暇あんのかよとかね。本人からすれば無意識でこなしている所業なのだが、矯正された所作が無意識レベルに浸透しているってのは何かこう悲しい話だ。正座とか体育座りとか、企業理念の唱和とかああゆうのとはちょっと違う。

話は少し逸れたけど、左ききのエレンについての感想を。「あいつ天才やねん」「そうか?そんなことなさそうやけどな」「あいつ、、左ききやねんで、、」みたいな話でした。

まあ左利きってのは天才の代名詞ですよね。右利きにとっては。左ききやもんって言われるだけで説得力増すような気がする。実際、そんなこと言われたら笑っちゃうけど、でも実際のところどうよと。笑ってるけど、ああやっぱり、そうなのか(納得)となりはしないか?

才能は優劣ではない、本当のところそれは間違ってはいないが、人間には経済圏がある。たまたま現社会と反応しただけに過ぎない才能を人は天才と呼ぶ。あえてたまたまと言った。だってさ、天の才だぜ。雷があたる確率くらいの出逢いじゃなきゃ才能は簡単に開いたりしないよ。異端でしかない才能が天才になるなんてあり得ないこと。素晴らしい!

金稼ぐのも才能だよ。お金が好きだったり、べらぼうにケチだったり優しかったり、人を支配したかったり、家族を養うためだったり、天才と呼ばれたかったり、自分で読んだり、努力したぜベイベー的なね。

また話が逸れた。エニウェイ左ききのエレンはタイトルがすごいよかった。