泉へ

金があれば鬱病は治ると知人が言っていた。でも、在るだけじゃだめだ。湧いてこないといけない。大漁どころじゃない、ぼこぼこ、ぼこぼこ湧いてこないといけない。在るだけじゃ消費になってしまうのだ。在るだけじゃ無くなってしまうのだ。無くなってはいけない。無くなるかもしれないと思えば思うほど辛いことはない。一生減らないお菓子ほど幸せなことはないだろう。無くなってはいけない。無くなることを考えるのは死について考えることと同義だ。

まあいいや、今日は無くならないものとは何だろうということである。ラカン現実界を思い出して知ったかしても仕方ない。無くならないものとは何だろう。身体は有限だ。想像は自由だ、んなわけがないが、無限ではある。そういう意味では有限かもしれない、でもそんなこと関係ない。

東くんは草を刈る。東くんは成人男性が生涯食らうだろう量を凌駕する枝豆を作っている。東くんは枝豆を消費することがない。例えば、AV男優が射精するシーンを見て、滝を思い出す。量が多いと感動してくるし、性的な快楽とも混じり合った何かしらの興奮も覚える。精子もなくならなければいいと思うが精子もやはり有限である。身体は有限だ。三人寄れば文殊の知恵と言うが、集まっても仕方ない奴らもいる。

電車に乗ると、色々な会話が聞こえる。酔っ払った若者風のおっさんが色々喋っていて不快である。若者風はキモいのである。なんというか、おっさんが若者と同じファッションをしているとキモいのである。未だ発情期かと、未だそこか、と。カッコいいと思ってるのだ、死ねば良い。色を感じない服装とは概ねキモいものだ、誰であれ。若者もキモいのである。色がないのはダメなのだ。かと言ってユニクロでいいんすよ、服なんて。もキモいのである。いやあ僕だけかもしれないが、みんなキモいのである。キモい奴の方が多いのだ。なんでこんなにみんなキモいのだ。なんで人間はこんなにキモいのだ。キモくてキモくてやるせない、人間どもはみんな龍の背中に乗って富士山にでも行ってなさい。

なくならないものとは何だろう。人間の世界にあるのだろうか。人間のつくる規模にあるのだろうか。あるのだよ、それが芸術だ。規模なんだよ、ミニチュアなんすよ芸術なんすよじゃないんだよ。芸術なんて消費できるもんじゃないんだよ。あーこれってあれですね、すごいじゃねえんだよ。比喩すらないんだよ。リアルなんだよ。階段のうえのこどもにきみは話しかけることができない、だよ。名前も知らないんだから、一緒に泣くことしか、死ぬことしかできないんだよ、名前すら知らないから。話がどんどんと逸れたけど、もっと心地よい言葉を。言葉の輪郭しか残らないものを、作れたらいいいな。汚い意味も綺麗な意味もそこにはない。漂流物みたいに洗ったげる娼婦みたいな海は漂流物をぼこぼこ浜辺に届けます