「訴えたいことがないんです。メッセージのない演説家でございます」

初めてこの演説を聞いたとき、ああ、となった。訴えたいことなどない、何一つとして。そして、次の一文。

「自己紹介は得意でございます」

ああとなった。伝えたいことなどないから自己紹介みたいなことを延々と飽きもせずしている。

鳥肌実、42歳、厄年。

でも、話したいことが山とあるのだ。いざとなれば、何も出てこないけど、それでも話したいことが山とある。

話しながら考えている。われわれはなにかを作っている。話しながら。何かを生んでいる。物語に引き摺られ、口は主権を奪われる。まるで、、それは、、ムード、、、とろけそうな。意味を求めて〜大事なものがない〜それは空洞〜空洞〜

ゆらゆら帝国

さて髪の毛を切った。半年ぶりになる。犬にシャンプーをしている動画を見ていると、何か懐かしいものがこみあげてくる。ぼくは犬にシャンプーをしたことがないし、自分の頭にシャンプーもあんまりしない。でも、あの手の仕草、毛をむしゃむしゃっと掻く仕草、あの愛らしさにはどこか見覚えがある。涙さえ湧いてくる。

ああ、となった。間違いない、これはグルーミングだ。われわれは、口ではなし、この手で愛おしさを表してきた。口は叫ぶためにあり、この手は掴むためにある。この手は顔ほどに物語る。だから手を動かすと色々と思い出すのだ。

口は歌う、手は踊る。われわれの口や手はそうする。いや口の踊りは歌となるだけか、それでもそれはだからこそ叫びに近い。無音のダンス。舌が波、つば踊る。手は?

遠い、その距離はとおい。手は切実な距離。手を伸ばせ、厳密には肘を伸ばせ!おい、肘が曲がっているぞ。それはマエヘナラエとはマエーナラエだ。

そのレザーを脱げビニールに見えるこっちに来るな。これは壁だ、文化の壁だ。日本は平和?甘っちょろい、資本主義だからなんだ。だからってなんでも寛容に済まされるとでも。グローバルでもなんでも勝手に海外へでもどこにでも飛行機でも船でもなんでもよいが、こっちにくる!が、どのような、いかなる方法であれ、お前らはこっちに来るな。なんでも買えてもなんでも買えない不条理がおまえらを消費に駆り立てる。おまえらはこっちに来るな。なんでもできない。