ナポレオンの息子

ナポレオンの息子は父親が死んでいることを幼いながら理解していた。彼が生まれて父親はすぐにこの世を去った。ナポレオンの息子はぼくに聞く。「もしも、あのとき、(弟の名前)が俺の親にならなかったら、(ぼくを指差してー)は俺を育ててくれたか?」

声はまだあどけないし、背も幼児と変わらない、肌もまだ餅のように白く穢れのない、この子だが、手足が長く、頭も小さかった。「育てたに決まってるじゃない」ぼくは社交辞令のように、あの厭らしい笑みを浮かべた。周りの空気が一瞬止まったような気がした。ぼた雪が背骨を伝うような後ろめたさを払拭するように、「いいや。まだ。あのときは、あのときはまだ、幼すぎだ。ぼくはまだ10歳にもなっていなかった」

ナポレオンの息子は不思議そうな顔でこちらを見た。彼には歳を重ねるという概念がなかったのだろう。かれは生まれた時から今までなにも変わらず、身体と周囲の変化を理解していた。ぼくたちの一族はナポレオンが死んだあと、みんな散り散りになって旅へ出た。弟はナポレオンの息子と猿を連れて、ぼくは一人で、ぼくらは追われていた。捕まって殺されるはずだった。もう二度と会うことなどないと思っていたのにインドでばったりと会ってしまった。

「そうやねん、こどもがこどもを育てられるわけがないんよお。○○ちゃんにしてもやで?だから、わたしがみいいんな、0から育てたんや。わかるやろうなあ、今やったらわかるやろう?なあ〜」

どこからともなく現れたこの女は、めっきりと歳をとったせいで誰か分からなかった。目の下もめっきり黒く、肌は弛み、枯れ木のような腕にはジプシーの娘を彷彿とさせるような細い銀の手飾りを幾重にもつけていた。女が手をあげるとジャラっと音がする。真っ赤なターバンの結び目から下が風が吹くと美しく舞った。

ぼくと弟は「嗚呼、確かに」とかも納得したかのように感嘆をあげ、腹の底ではお前の話は聞いていないというような気持ちでナポレオンの息子を見た。ナポレオンの息子は蔦を登り、遥か上の平たいところで猿と戯れていた。太陽が地平へ沈もうとしていた。一日が終わる。

一日が始まった。夢から醒めた。雨がしとしと降ってら。レザーパンツが濡れた。こういう日は図書館へ行くのが良い。ゆっくり本でも読む。雨の日は本を読むためにある。本は雨の日のために。人間が開発した高尚な、暇つぶし、読書。