往還

いつかはしっかりとちゃんと仕上げる気だったが、もはや、そんなことはしないだろう。という諦めから、およそ三年前に書いたものをアップロードした。夜な夜な何かに駆り立てられて、ひたすらに文章を書いていた日々のなかで辛うじて意味が通じて最も長いもの。色んなものに影響を受けた。その影響を隠すことさえせず、勢いが死ぬまでやり続けた。途中でカンフル剤でも打つかのように、自分を興奮させる言葉を文とは無縁に穿ち、流れるままにしていた。

ぼくは詩から物語へ入ることが多かった。今は夢をみたときにしか物語ることがない。伝えたいものなど何一つなかったし今もない。文を書くのは楽しい。『〇〇が死んだ』と書けば〇〇は死ぬ。『でも、〇〇は生き返った』と書けば〇〇は生き返る。死と生を簡単に往還できる、ありえないことが文の上では行われる。文は揺らぐ。書いてる人も読んでる人も揺れる。明日にはロンドンへ次の文ではブラジルへ、出身地も変えれば良い。意味の統合性は死に、意味の衣擦れが浜辺に転がる漂流物のようにただ有る。ことばは人間の環世界間移動能力を極限へ導く。

海辺へ行くような気持ちで文章を読むと、文章が全く読めなくなるのは、きっと意味の統合性に満ちているからだろう。

ぼくは殆どの時間を本を読んで過ごしていた。本はぼくに言葉も光景も与えた。本はぼくの闘争心を煽る。でも、いつからか、掌で転がされているような感覚を覚えてもいた。ぼくは迷子だった。彼らの影響に負けたり、勝ったりしながら道を進んだ。それが書くことだと思ってもいた。

あたらしい言葉を獲得するのはある種の快感を覚える。知っていたことを一言で表せる言葉は非常に便利だ。それを駆使してもっと深く広く物事を考えられるようなる。ただ広く考えられるようになったからといってどうなる?そこに快楽を見出せている時期はそれでいい。でも、それが終わったらどうなる。だれとも話せない自分が残る。言葉を知るものとしか話せなくなる。ぼくはヘンリーダーガーではなかった。

今は何が好きなのと訊かれても答えることはできない。ファッションか?と訊かれても首を横にふる。書くこと/読むことが最も好きだった時代に戻りたいかと訊かれても答えはノーだ。社会人は楽しいか?と訊かれてもノーだ。知的好奇心はほぼ死んだ。

次はまた何かを作るのだろうか。日本のため、世界のため、来世のため、そんなどうでもいいことのために書くことなどない。至極どうでもよいものの中に、ただある身体が不思議であるとともに不思議でない。明日には一時間後にはまた考えも変わってるだろう。その振れ幅がなければ死んでいる。これまさに環世界間移動能力の賜物!