死に至らない病

昔はね、人間を解放しようと思ってたんですよね、ずいぶんと大義ですけど。今は、それを思わないですね。迷惑という概念がありますけど、この迷惑という言葉に非常に迷惑している人間がおりますわな、その人間のためにも頑張ろうと思ってたんです。でも、今はダメですわ。例えば、あらゆる書物は人間のためにあるわけじゃないっすか。基本的には。人間ばっかりアホばっかりでもうええんちゃうけとか思い始めてから何も書けないんですね。承認欲求もないから余計書けないですね。一言で言えば、ぼくは革命のために書いてたかもしれないですね。自己紹介も兼ねてね。この犬野郎とか猿以下とか、悪口で使う人いてますけど、それ悪口なってないですよ。人間を良くするとか、解放するとか、ほんと無理な話やと思います。単純に言葉の衣擦れのようなあそびをやってても、どうしてもぼくは憎悪や賛美を綴っていた。だからぼくは革命したかったのだろう。どうしてこうなったのか、単純に人間が増えた。それだけの話です。訴えるものがないんです。メッセージのない演説家でございます。さながら、ぼくは今度東京へ行くのですが楽しみですね。このまま、この論理の極へ行くならぼくは死にますね。でも、死にたくないわけです。キキちゃん好きやし友達も好きやし、みんなラブやから。死ねないし、生きたくもない、この有耶無耶な状態を繰り返しぼくは、話してるわけですけど。おまえらは一体何しにこのブログを読んでいるのだ。こんなところには何も落ちていない。心配は御無用。希死念慮ではない。ただ価値を見失った、本を読み書き、人間に伝えるということ。社会の潤滑油でしか、ないのならば音楽なんてものは下等。音符こと爆ぜて無へ帰れ。ぼくは音楽に救いを求めた。救いを求める、その情けさなさ、音を聞いた耳で言葉を聞く、涙を流したのと同じ目で人間を見る、この遣る瀬無さ。この屈辱は、今までオブラートに包んできたものが失われたときに、まじまじ重く感じられる。ぼくは何処へ行こうが、こういうことしか感じられない。何をしようが、ぼくは生きられず、死に至らない病だ。見えなくてなっても突然降って湧いてくる、ぼくの、中には億千の細胞や菌がいる。消えることはないのだ。見えなくなるだけで。ぼくのひかりもまたそれに同じ。こんな反復をしても精神が丈夫になるわけでもなし、日に日に重くなる。なぜか、知らないが謝りたい気分だ。ごめんな、前世、後世。もしも人間だったら、人間に憧れていたら。こうやって思いの丈を綴って今心が軽くなって眠って朝がくる。この反復に救われる情けなさ