整然と矛盾する潔さ

タイトルの如く素晴らしかった。カルチャーが渾々と湧いては死にアスファルトの上から立ち上る靄は夢のようにアトラクティブで開放的だった。大阪とは異次元の場所だった。そもそも比較対象ではなかったという感慨が街を歩く度に、ひしひしと感じられた。人間の数が桁違いに多く、彼らが持つ二つの目はその数の二倍ある。視線によって籠絡されたアスファルトのカルチャーは、数の多さゆえに無関心でもあり、人間同士の間で交わされるファッションものびのびと捻られていた。

アスファルトのカルチャーに他種生物はいない。というよりも、人間以外の生き物の存在すら忘れている。忘れているだけで本当はみな、覚えている。忘却に次ぐ忘却で自暴自棄になっているのが東京という都市、夢なのだろうと思っていたが、必ずしも自暴自棄ではないのだろう。つち式の観点からすれば、他種を忘れすぎではある。

ぼくはファッションをしている。視線があって初めて成立するものだ。視線が多ければ多いほど、ファッションは洗練されていく。端的に言えばファッションはアスファルトの文化だ。それをやってる人間からすれば、東京はほんとうにアトラクティブな街だった。

ファッションが始まって未だ百年に満たない。というよりも、ファッションは始まってすらない。東京ではファッションが始まっている。話は変わるが、つち式はアスファルト以前の生を暴くラディカルな書だ。アスファルト文化への天災でもある。ぼくはこの本に少し携わりながら、生を大阪で過ごしている。東京に魅力的な引力を感じ、つち式のラディカルさを感じながら、寝ていたの死んでいたのかよくわからない心の動きを感じている。どっちも肯定している自分にもはや驚きすらない。それは混沌としたものですらなく、整然と矛盾する潔さである。今はとても心地よい。よく眠れそうだ。