iPhone SEの死

一切合切、上手くいった。簡単なことだった。壊れた iPhone SEから中古のiPhone SESIMカードを移し替える。icloudにサインインすれば、元の木阿弥。アプリをダウンロードをしてサインイン。なんの遜色もなく、メモは前と同様に残っていた。

耳触りの良いフリック音が響いている。それだけは馴染みのiPhoneから遠く、懐かしく新しい、やがては耳障りになる音だった。

白んだiPhoneの画面は数十秒も経てば黴がはえたように黒の斑点が苔生し、色彩が反転した。ストライプ模様が画面から浮かびあってくると、ホラー映画のよくある技巧のように稲妻が横に走った。画面操作もろくにできなくなることも多々あった。その都度、電源ボタンを押し、やり直した。今朝、何の縁も余すことなくiPhoneは死んだ。享年2歳と数ヶ月だった。

半年ほど前に画面が割れた。iPhoneの調子が振るわなくなったのは最近の話で、三週間くらい前からiPhoneは狂い始めた。嵐の前の静けさもクソもありもしない、死ぬ前から狂気に満ちてもうすぐ死ぬのが見えていた。死ぬ前に片手間でやれるだけの手続きは行なった。

永らく読まなくなっていた小説なんかも読んでみた。髪の毛をセットしたり、オリジナルトレーニングなんかもしたりした。このままずっとこうしていたいなと思っていた矢先のことだった。ぼくは死にかけのiPhoneが死にかけのまま死なないのを望んでいた。ちょうど良いリズムが生まれつつあった。でも死にかけのものは死ぬものだ。

白のペンキで画面に大きな十字架を描いてやろう。二年と数ヶ月の間に撮られた写真は、誰に見られることもなく消える。それらはどこへいくのだろう。人間の脳みそが土のなかでとろけていくように、端末の内部もいずれ錆つく。二度と戻ってこない。十字架はiPhoneにも捧げるべきだ。