MY知覚

情をかけても利用されるばかりで、サービス業の人たちがマニュアルを担ぎ上げ、そこから一歩も出ようとしないのは必然のように思う。客は化け物だ。この前してくれた、筋が通ってないと温情のようなものを温情のない態度で求め続ける。一昔前なら、何言うてますのん、毎回できるわけないがな。こっちも商売でっせと言えたのだろう。今、そんなことを言えば、会社に電話されるか、グーグルレビューにボロカス書かれるかされて時間を無駄に捧げて無料で残業させられる。

この時代は粋じゃない。昔のような掛け合いを年召した方がやろうとしても、接客する側はそちらに歩を進められない。身体がものともののように硬直している。この業界でぺらぺら話すやつには詐欺師が多い。情は利用されるためにあるような気さえする。

労働のことを修行と呼ぶ人がいる。この時代の修行は自己啓発への信仰だ。寄る辺がない人間たちが奉った、神に替わる信仰の対象。それに耐えかねて殉教者ですらない、人間が自殺していく糞社会。なんだこれ。もしも、詩や音楽や映画が労働の呼び水となり、歯車の潤滑油となっているなら、こんなにも悔しくて遣る瀬無いことはない。芸術は人を解放するためにあったんじゃないのか。政治的にもマインド的にも解放の仕方はそれぞれだ。でも、もしもだ。それが囚人の昼休憩のような、管理社会によって設定されたものだとしたら、そんなものを聞いたり、読んだり、できるわけないだろう。おれは壁を作る。だれでもかんでもウェルカムなんてしない。入ってきたらボコボコにする。いくら資本主義になって全ての場所がフラットになったとしても、おれはだれでもかんでも部屋に上げたりしない。選ぶ。糞芸術め、糞社会め。糞は肥やしになるがその糞は新しい糞を再生産するためだけにある、選りすぐりの糞だ。光栄に思え、糞人間