wear

何かしらを巻くといった感覚は希有かもしれない。巻きつける布、その所はスカーフを首に巻くようにステレオタイプと化す。実は服には着ることと巻くことが共にある。wearには着ると巻くが共生している。日本語でいうところの着用がwearにあたる。

被る、履く、かける。すべてwearである。footwear headwear eyeware, wearは身につけ得る全てのものを名指すことができる。wearはモノをwear化させる。wearにとって頭部、脚部、身体、等の場所は問題ではない、wearの命題はwear化していること、つまりwear化の状態を指すことにある。所作もまたwearにとっては問題ではない。また恐ろしいことにwearは名詞を名指すとともに場所を確定させるのである。wear a hat, wear shoes。wearされたものはwearになる。動詞がそのまま名詞になる。このwearの暴れっぷりには驚愕する。

wearのなかには相反する部分が乱立し、それらがいつも正しく正しい場所に収まるように仕向けられる。wearとclothの間に齟齬は生まれず、wearとtrouserの間にも齟齬は生まれない。しかし、日本語は靴を着ることに齟齬が生まれる。

だが、忘れてはいけないのが名詞である。hat は頭にかぶるモノを指し、靴は履くものを指す。このように名詞の力はとんでもない。wearはモノを着用している状態を指す動詞である。だが着実にウェアされたものはウェア化し、ウェアと名指されるのである。この透明な機関のように振る舞う動詞wearはモノをwearした瞬間、wearし得るモノを発見するや否や、同化政策をしかけ、名詞wearを異なるモノに植え込むのである。wearはwearを名付ける。

wearの特異性を炙り出したところで、巻くという所作について考える。我々はまずwearから脱しなければいけない。wearはwearされるまでの所作を含まないから、最終的に巻かれたものはwearになる。が、しかし、一歩前に止まり、巻くことについて考えたい。巻けると考えたものは勿論、wearである。だが、wearで汲みえない、どこに何をどうやってについて考えたい。jacketをwearしたとする。もちろんwearにとってはjacketは着るものであるからジャケットを着るということに自動的になる。巻くことはここをつくのである。実際は服を着ているのではなく、服を巻いているのだ。首に、肩に、腕に。wearは混乱するだろう(それもたwearである)

私は服を巻くことによって混乱を引き起こしているwearに遭遇する。