詩、有限性への憎しみ、輪郭を伴って

どうしようもない、やるせのないもの、それだけが詩を生むのではないか。受けとめきれぬものを有限な身体で受けとめ、失語し、それでも生みだされる言葉が詩なのではないか。やるせのなさを憎しみ、憎しみきれぬ憎しみを我に抱き、寄る辺を跳ねのけ、語ろうとするわたし。わたしが語りだすとき、わたしはもはやわたしではない。わたしに潜む数々の憎しみがわたしに孔を穿ち、一斉に語りだす。憎しみの氾濫、わたしは辛うじて、わたしという意識を保ったまま、狂気ではなく正気で滲みだした染みを言葉へと変換させていく。それでいてわたしとは一体なにか。歪曲するものである、そして、任意の統率者、有限性そのもである。わたしは歪曲を促す有限性を憎み、統率者であることを憎み、わたしの有限性を憎むものである。わたしはわたしが消え去ることを望む、そして有限性が爆発することを望む。しかし、有限性が失われた場所で、わたしが消滅した場所で、詩が生まれることなどありえるか。否、それは夢である。詩は有限性の証として、有限性を憎むものとして、生み出される。そして、それは決して生まれるのではなく、生み出されるものなのだ。他者の世界に対する有限性の臨界地点で。他者と決して織り混ざらぬ、瓶のように冷ややかな己の壁を他者の絶対的に不可侵な冷ややかな壁に、でこを寄せるように。わたしは今日、石牟礼さんの悶絶を、受け止めきられぬ悶絶を受け取り、言葉を失った。そして、