日記1

キキちゃんは体調がすぐれない。心に鉛の入ったような気持ちがするらしい。

ぼくとキキちゃんは何かしらよくない雲行きを察知していたにもかかわらず、会話を続けていた。会話、それはついぞ会話ではなかった。さかなの小骨が詰まったような不快感がぼくらを満たし、沈黙へと誘った。いくらか黙っていた。

キキちゃんはぼくが話し出さなければ、ずっと黙っていたかもしれなかった。そんなわけで、キキちゃんは泣いてしまったのだった。キキちゃんは、泣きながら何度もぼくにあやまった。泣いてしまったこと、空気を乱したこと、そのほか色んなことを。キキちゃんはやさしい。だから、ときどき自分に辛くあたってしまうのだ。誰かにあたることなど考えもつかず、自分を鋭く責め立てる。平常であれば、うまく乗り越えられるのだが、状態の悪いときには、自分を串刺しにしてしまう。どうやらキキちゃんはそういうふうな周期リズムで日々を生きている。よくもまあ、死ななかったなと思う。キキちゃんは強い。

話を聞くに、

気分のすぐれない休日のキキちゃんは、本屋へ行き、迷いに迷って、ガイドブック『コトリップ』を購入した。普段気キキちゃんは本を読まないからかなり息こんで決めたのだろう。それから選びに選び抜いたコトリップを、来週日曜日のデートに備えてルンルン気分で読んでいた。ここも行きたいな、あそこも行きたいなという具合に。これがキキちゃんの休日のお昼頃のはなし。気分のすぐれないキキちゃんはなんとか一日を無事に過ごせたと思っていた矢先のことだったろう。ぼくから着信が入った。

「コトリップ?しょうもな」

この一言がもはや蝋細工と化したキキちゃんの心を襲撃した。キキちゃんは鋭い痛みを感じたにもかかわらず、笑ってしまった。そして、ぼくは笑うキキちゃんに違和感を感じ、なぜか静かな怒りをたなびかせてしまい、ついにはキキちゃんを泣かせてしまった。キキちゃんは「そんなこと言わんといて」とは言えなかったそうだ。言葉が幾度も喉まできたが、傷ついた心からは屈折した笑い声しか漏れなかった。カフカの小説、変身の主人公、グレゴールザムザは虫になる。虫になったカフカはぴいぴいと音を鳴らすだけで不満を表す言葉を口にすることはできない。電話の向こう側のキキちゃんを襲ったのはそういう危機だったのだろうか。

「痛くても言葉にならないときはワンと啼いてほしい」

そう言うと、キキちゃんは笑い出した。屈託なく。

次の日、キキちゃんはぼくに会いに最寄り駅まで来た。チャイナシャツを来て屈託なく笑うキキちゃんはいかにも無垢でいつものキキちゃんだった。猫もすり寄ってきそうなほど、透明で、何でもない国道沿いの寂れた、スーパー玉出の明かり以外めぼしいものがない、玉出駅近 辺を、ぼくの周りを、とかく幸福に彩った。

スーパーの前には大量の自転車とそこへ集う、正の走光性の民。その中にホットパンツで長髪の男もいた。馴染みの人物とぼく。わたしは二度目とキキちゃん。男は金髪をたなびかせて颯爽と玉出に入り、ぼくらはその先を左に折れた。つまり曲がったことのない道を曲がって、行ったこともないのにクソ辛い冷やし中華をだす店と出会い、戸塚ヨットスクールを画面越しに眺めて、一昨日、道案内したスペイン人一行の今日の出来事を案じながら、ちょっと改装して新しくてなったようには見えないぼくのアパートメントへ帰った。そして、ぼくは今、かゆみを克服するためにワセリンを塗りたくり、筋トレに励んでいる。キキちゃんは眠っている。

あるべきものとはうまく付き合っていく。このかゆみにしろ、すぐれない気持ちにしろ。それ以外になにかすべきことなどあるだろうか。症状に屈せず、うまく付き合っていくこと以外に。完璧に白黒をつける、そんな妄想的なことを実行してしまえばあの中華屋は潰れるだろうし、人間もまた潰れてしまう。

 

発酵した彼女の匂い

発酵するまで気づかなかった気配

知らない気配、未知の気配

それもすべて、彼女の匂い

それはもはや彼女でない彼女

暫定的彼女

きっと名前の下で分裂するきみ

総じることなく

一にもならず

ましてや消化されず

発酵するきみの穂は

風に揺られて

花粉を飛ばす

 

これはいつぞやに書き留めた、彼女を想像の中に閉じ込めないように書いた詩だったはずだ。そして、続きを書きあぐねたものだった。ほんとうなんとも言えない!穂って花粉飛ばすのかよ。なんとも甘いライム。いろんな意味で。ここからぼくは人称と主体をぶち壊し、任意の主体を設定し、主導権争いの物語を経て、詩と有限性について考え、または分岐し、未知なるもの、忘却されたものの逆襲を描き(未完)、そして、ミハルアイヴァスの影響の下、隙間から隙間の移行へ試み、旅を続け、家庭の誘惑に駆られながら。いまはとかく人間の尊厳について考えている。生き物の、奴隷じみた権利ではなく、尊厳を。あくまで先験的にしないように