グザヴィエ ドラン

言葉、会話が限界を迎えた、そんな一日があった。よくある。大勢とはなすときと一人とはなすとき、なにかしら異なる。人は一人としか実際には話すことができない。もどかしいが事実だ。一対一以外、人間はコミュニケーションをとれない。大勢の場合にはまず、ノリがある。

もっぱら最近は映画を見ている。映像は暴力的だ。見ているあいだ想像の余地を残さない。直接的に映像が視界を襲撃する。ぼくはあんまり映画が好きではなかった。本の方がやっぱり好きだ。書かれていることと写っていることは同じ情報ではない。グザヴィエドランが、映画にナレーションはいらないといっていたがまさにその通りである。映画に語りは過剰なのだ。

映画のなかでかかる音楽が救いであるように感じるときがある。映像という超個人的なものに対して音楽は鑑賞者に対して一種の思いをこみ上げさせる。音楽の魔力だ。視覚は所有できるが音楽は所有できない。音楽は映画のみに使われるものであれ、初めてのものであれ、所有の原理を逃れているから、映像に回収されず、映像と視聴者のあいだに舞い降りる。そして、二つを媒介しながらそれぞれをぶつからせる。

ドランの映画は音楽がかかるシーンではスローモーションになることが多い。あのとき、われわれは映像を見ながらもう一つのものをも同時に見ている。たぶん、それはわれわれのなかの超個人的な自分だけのものだ。ドランの映画マミーにおいて、オアシスのワンダーウォールが流れるシーンがある。あのときに浮かべる涙は映像に対する涙でもあり、ぼくの超個人的なものに対する涙でもある。

たびたび、ドランの話が出てくるが、ぼくはいまドランに心を奪われつつある。ドランは同性愛者が登場する映画をよくとっている。ドランは関係の描写(彼自身は感情と呼んでいるが)が繊細である。感情は他者との関係の中で表出することが多いが、その関係にまつわる感情の描写がかなりうまいのだ。胸騒ぎの恋人で魅せた距離感、手の表情、あれは同性愛にしか表現できないものだろう。同性愛が実にあたって、異性愛と違うのは告白の前にカミングアウトが強いられることだろう。付き合ってくださいのまえに、自己のアイデンティティを相手に告白する必要があるのだ。わたしはゲイです、この一言で関係がめまぐるしく変化するのだ。きみのうんこを食べたい、よりも熾烈な告白。自分の尊厳を他者に差し出すことから。

またドランにおいては家族という存在が不可解な謎として定義されている。トムアットザファームではそれが如実に表れている。物語の説明をはじめにするならば、恋人の葬儀でトムは恋人の故郷へ向かい、彼の母親、兄の経営する牧場で共同生活を始める。

トムアットザファームにおける、フランシスと母から成る家族は、母を悲しませないことが原則である。その謎のルールが主体のゲームに主人公が参加させられることから物語は始まる。なぜ謎かというと母を悲しませないようにするというルールが家族を延命させるものであるという公式が謎なのである。フランシスはトムにゲイであるとフランシスの母親に言ってはならないし、この場所に住むよう命令もされる。それに対してトムは君たちのゲームを押し付けるなと言い放つのだが、フランシスはおれのルールに口を出すなとぶち切れる。そう、フランシスはこれがゲームであることを自覚しているのだ。自覚しているにも関わらず、ゲームを維持しようとする。またトムとタンゴを踊る画面では母親が死ぬのを待っているとも発言している。なぜフランシスはそうまでして母親と関係を保とうとしているのかが謎なのである。たしかに経済的な理由や個人的な理由もあるだろう。しかし、なぜはなれずにくっついているのかが不明なのだ。

介護の問題にしてもそうかもしれない。家族だからという理由で介護にあたるのは至極全うな理由であるように見えるのだが、実際はそれが理由になることが謎ではないか。われわれはなぜ家族を大義にできるのだろうか。

物語の終盤、トムはこの謎のルールから逃げ出す。じつは二度目の脱走を図るのだ。そして、成功する。もともと余所者であった彼は病的な家族の支配から逃れ再び余所者になる。トムが逃げ出せたのは余所者であったからだ、勿論そうだ。しかし、もともとわれわれは余所者ではないのか。われわれはいつも生まれたときより外部から奇跡のように到来し、身体があるために一時的に徒党を組んでいるだけではないか。家族をもって生まれてくるなどあり得ないのではないか。われわれは気体になり、氷になり、水のときには形に合わせて、姿形をあられもなく変幻させる存在なのではないか。気体になったとき、かつて海だったことをわれわれは忘れてもいいはずだ。どこからきてどこへいくともしらない、われわれに家族などあり得るのだろうか。だからこそ家族がいるのではないか?間違いない、しかし、それはあくまで任意であるべきだ。

この物語は家族いがいのものも描いている。喪失というテーマが家族というテーマに劣らず、分離したものでもなくある。

グザヴィエドランは新しい形の家族ではない家族について先駆的に描いていくだろう。坂口恭平もまた同様に。アデルブルーは熱い色の世界観、ホモが普通の生活を営み、幸せに暮らしている世界を怒りや悲観をもって見ている者にはわからない、気体の世界をそれぞれの仕方で描いていくだろう。実際、それはちっとも先駆的でないのかもしれない。ぼくが知らないだけで。