お前のしらない固有名詞たちでおれは積み木遊び

本を読むと影響される。自分の言葉さえその人っぽくなり、その人と同じようなことを言いだす。それにもだんだん飽きてくるが、思考がそうなっているので、そうなる。あくる日には言ったことさえ忘れている。しあわせ。

【なぜこうも平仮名は丸いのだろう。漢字を見ると、例えば草冠で首を吊って殺してやるぜとか【さんずい】に刺さって死ねとか思えるのだが、平仮名を見ると色々と捥ぎ取られる。それに平仮名は意味を遅延させてくるので後から炸裂する。非常にタチが悪いが心地よい。腹立たしいが嫌いになれないし、本当のところ、よくわからないが好きであり、憧れもある。イシヤクの文章を読んだときの感覚に近く、キココスタディノフのコレクションを見てる時の感覚にも似ている。

で、カタカナだ。この無機質さは一体なんなのだろう。外国語を外来語に置き換える日本語の膜であるにも関わらず、なぜこんなにもライト臭いのか。まあそりゃそうか、無理やり日本語にしてるわけだから吸引力の変わらないただ一つの掃除機みたいな貪婪さがあるわけだから。はなはだ共通項がないわけではなさそう。そうか、ダイソンは右翼だな。でも移民ですら吸い込むからもっとコスモだな、でかくなればビーズ吸うみたいなノリで地球も吸うだろう。どうでもいいこと。カタカナは直線、平仮名は曲線、おれは平行四辺形で手を上にして歩いている。いつでもな。

で、文体の話に戻る。戻らない、いや、戻る!戻るか戻らないか、では留まるのか、いいや進むのか、立ち竦むのかマイケレン味。おれのケレン味よ!いいやマイケレン味よ!芦田愛菜

マイというのはどこまでがマイなのかという問いには興味がないし、マイというのは合いの子であるというのも聞き飽きた。マイドゥルーズも、マイラカンも、飽きた。言うのも嫌になる。世界を閉じすぎている。独り手に死人とチェスしているのとおなじだ、彼らが生きてるとしても、本になった、会話が終わった時点で死んだのとおなじだ。ただ不思議なことに小説家や詩人の固有名詞にはマイをつけられない。これはかなり個人的な話だろう。無理だ、違和感があるし、凸と凸だ。そこはおれのプレイスじゃない。

どうやって言葉を書けばよいのだろうか。ぼくには伝えたいこともないし、伝えたいことは書くことと関係がない。そもそも無縁だろう。文体は闘争でしかないのではないか。ぼくの前でチラついたヤバい奴らと、その視線を浴びて、おれの視線を向けて、やっと出てくる一言目を待つこと。おれは引っ張られ、裂かれる。四方八方からヤバい作品がおれを股裂どころか、無言に足らしめてそれどころか、おれに入ってきてそいつみたいな文を書かせる。で、おれはおれを望むのだが、マイケレン味とはなんぞや、と。ふと考え、風呂の水面で出るあぶくのような喃語をあげる。それは妄想か、どうだ。しらないか、お前にはわからない。始まりについて考えるというだけで俺は死んでいる。求めても、求めることだけがラディカルだが、ふとした風のなかに天使を見つけたりする、この時だけのために、その時の発熱、その時の全能感のために、無理だと感じつつも指を走らせる。それがマイケレン味なのか知らないが、そのときは味もわからない。でも、おれはきっとその天使に固有名詞をつける。名前を呼んでも彼らは顔すらださないが。