仕事が趣味に勝てるわけないだろう

おれは年々歌が上手くなっている。友達はボイトレへ行っているがおれの方が音楽している。そんな俺様にも泣きすぎて歌えないことがある。感情が入りすぎて俺様はカラオケ中に涙をする。そして歌えないのである。特定の歌に心惑わされる訳ではないのだ。いきなり泣くのである。友人の披露宴で、俺様は涙をした。もうそれも号泣なのだ。別に個人で付き合いがあるわけじゃない。思い出すらもはや覚えていない。だがなぜか泣けてくる。「涙脆すぎるやろう」と爆笑を誘えるくらい泣いていると、ある友人が「あいつは感動してるわけじゃない、ただの情緒不安定や!」と天才的なツッコミを入れた。

俺様は情緒が狂っている。人並み外れて敏感だということだ。あまりにも視野が広がったり、あるいは狭まったりするせいでいつも濁流に揉まれているようだ。いっそのこと、名前を瀧廉太郎にしようかと思うこともある。だから酒を飲んでいる。

まあいい別に。20くらいの頃、右翼的な思想になったことがある。すごく楽になった。物事を単純な一枚の織物にして邪魔な糸は伐採していく。何々教とか何々ismとか、ああゆうのにどっぷり浸かると心が楽になる。ある種、再帰的に日常を営めるようになるのかもしれない。だが、灰汁のように湧いてくる違和感から耳を塞げるほど俺様は鈍感ではない。

俺様は世界と世界と世界と世界と、雑多な世界の糸に宙吊りにされている。知っているのは出来ること、出来ないこと、出来るかもしれないことだけだ。俺様は片腕をぽんっと乗せただけで時速3万キロメートルでモンゴルの草原を走り、片手で南極の氷塊をいたぶることができる。

今の俺様は同じコーディネートをしないといったルールの下、ファッションやっている。学生時代はいつも同じ服を着ていた。いつも最高の自分でいたかったから。でも、気づいた時には、同じ格好をしなくなった。最高にも色々あるだろう。何十発かやったうちの一発がすげえかっこよかったら、それでいい。ただ同じ格好はしない。同じような格好をせど、同じ格好は絶対にしない。誰も見てなくても。

ベケットは言った。「何度、水たまりにハマろうが、同じ水たまりなどないのだ」ザッツライトバットディペンズオンザケース。よりマシに、よりひどく、より深く、より浅く、観光客のようにファッションと付き合っている。仕事が趣味に勝てるわけないだろう。常連が一見に勝てるわけないだろう。でも、一体なにと闘ってるんだ。可能性だ。この世の全てを不可能たらしめる可能性と闘っているのだ。