獺祭

獺祭、カワウソが獲った魚を並べる様。食わないらしい。食わずに並べる。その様がお供えをしているように見えたことから、カワウソが祭りをやっているとなって、獺祭という言葉になったようだ。そこから意味が転用されて、詩など言葉を綴る際に、文献を広げ散らかす様を表す言葉となった。

飾り付けた食物に箸をつけない、その様に超越的な存在を見出す人間。豊かな世界だ。このような神話的な思考は現代社会にも生きている。悪しきことに利用されもする。わたしたちの器は何色にも染まる。人工色であれ、自然色で何色にも彩られる。単色はなく、複数の色が器に色をつけ、変色し、塗り替えられ、剥げ、地層のように侵犯される。犯され続ける器。その器を一色に塗ろうとする奴がいる。一色でなければならないと宣う奴がいる。一色であると信じて疑わない奴がいる。

人肌は七色だ。血液の酸素量によって、その人の体調、感情が伝わるようになっている。そこに付いている目は肌を読み解く。言葉以前からあるバーバルコミュニケーション。人間には毛皮がない、丸裸の皮膚を面にして、すぐに紅潮する顔、体調不良で青くなる顔、それを隠すこともできず、面へ出る。恥ずかしい面をさげて、あまりにも無防備な面をさげて。

肌は獺祭している。他の獣たちよりも