ミウッチャプラダとマリネッティ

スピードが好きだ。速いものが好きだ。絵も詩も歌も。マリネッティのスピードが好きだ。未来派のスピードが好きだ。私はただのスピード狂いなのかもしれない。徒歩のときの思考と、自転車に乗っているときの思考は異なる。景色も異なる。自転車に乗ってると景色の断片が次から次に飛んできて、風を感じる。いや、風を作ることができる。思考は速くなる。要するに思考は風になる。

車はダメだ、法律に縛られすぎているからルールが多すぎる。ルールもそこそこに、身体的な実感として1番速くなれる乗り物は自転車だろう。自転車に乗ると、私の身体は自転車の一部となる。太腿のピストン運動がシリンダーを回転させ、その回転数に応じて自転車は進む。回転が速ければ速いほど自転車はスピードに乗り、最終的には私たちはスピードそのものになる。

今まで自分が作ってきたもの、自分が影響を受けた、もしくは嫉妬した作品の殆どが、突風のように鋭く速く、断片的だ。あまりに速すぎて非関係にある断片と断片が勝手にグルーオンされる。『スピード狂いのコウモリ傘とスピード狂いのミシンがたまたますれ違った場所が手術台の上だったのだ!』

世紀末のプラダにはスピードがある。新世紀のプラダにはスピードがある。シルバーのメッシュボディにグレースウェードのトゥガード、シューホール周りのレザートリミングに薄い靴底。私が好んで履く、このプラダの靴こそマリネッティの詩そのものではないか。思えば、同じイタリア人じゃないか。偶然のエコーではないだろう。流線型のこの靴は、新幹線、弾丸、マリネッティミウッチャプラダ