着て帰る

主体は結ぶものなのだろう。バラバラに離切している物事を結んで、歴史を作っていくだけの私。時代も背景もてんで異なるものを編んでいくだけの私。時計じかけのオレンジのワンシーンで主人公のアレックスが、ヴェートーベンを聴きながら、経験したこともない経験を、背景もしっちゃかめっちゃかな光景、非連続的なイメージを次々に連想するシーンがある。主体が為せる技の妙。

私は新しい装いをするたびに、私以外の者、つまり服が私の身体を媒介して別の服を呼んでいるといった気になる。私の意志はどんどんと薄くなり、服がスタイリングを始める。私はその服がどこで生まれ、どういった背景で生まれたのかを知らない。服が選んだ服は自分の意思とは別のリズムで選ばれていく。それがなんとも面白くて心地よい。体内に別のリズムが生まれる。もしくは生まれていたことに気づく。

別のリズムと別のリズムが掛け合わされるとまた別のリズムが生まれる。むかし、私が愛して止まないドイケンさん(古着屋さん)がこんなことを言っていた。

「昔からガイジンみたいになりたかってん。狙ってんのか、狙ってないんか分からん格好。それが自然にできるようになったんは最近かも」

達人の域である。意志の管理下から離れたスタイリング。思えば、ダダイストは意志と芸術の距離について言及したムーブメントだ。作るうえで、どれだけ意志と乖離していくか、どれだけ意志と距離感をとっていくか。国も時代も少し変わるが、ハイレッドセンターのドロッピングショーは身にしみるものがあった。

服を着て、服を買ってそのまま着るという営みと意志の管理下から逃れながら、作品を作るという営みに差はないだろう。私はダダイズムを一部で継承しているつもりだ。絵も書かないし、像も作らないけど。文章を書いて、服を着て、生きている。服を着るのも、文を書くのも、絵を描くのも私にとって大業なことではない。生きるために必要なこと