射精する棍棒

第一回棍棒合宿が終わって2週間が経とうとしている。ナタを振り下ろし、サンダをかけるだけの合宿。枝に持ちやすい柄を作って殴打するためだけの棒を作る。2時間くらい力一杯ナタを振り下ろし、1時間くらいサンダで均すだけ、それだけで道具ができる。実際、時間の経過を鮮明に覚えていない。手に力が入らなくてもナタを握って下ろす、その作業に夢中になっているから時間が分からない。暴力が道具になる、破壊が形になって殴るための道具になる。純粋な暴力が形に残って、しかも道具に化ける。やばい、普通に考えて?やばない?こんなにおもろいことはない。作ることには精巧さ、緻密さが要求されがちで正直めんどくさいし、おもんない。薄氷の上をそっと歩くような、暴力とは真逆の技術、努力で暴力について語ろうとする。観念的な暴力といってもいい、暴力のくせにちまちましてる。シャウトがしたいのになぜボイトレに通わなければいけない?ボイトレへ行ってる奴のシャウトの仕方ほどキモいもんなはない。あれは観念的なシャウトであってシャウトではない。あれはロックじゃない、ファービーである。

細かい作業はないのに力量が反映され、荒々しさのなかに手慣れがある。おれが作った棍棒はしょぼい。サンダの跡がたくさんついているし、先細りのダサいちんこみたいで正直、人に見られたくないが、道具として使える。粗ちんでも大丈夫、ペニスと同じように機能的であり解放的であり射精できる。ペニスが何度も勃起するようにおれは棍棒を作り続けた。

東千茅の一連の働き、営みは棍棒的である。己の暴力を最大限に発揮したところで結局それは里山の営みになり、里山の政治に不可欠な働きになる。人なくして里山はない。暴力の大肯定。蛙を鶏の餌にするのにシュレーゲルアオガエルだけは愛でる。差別上等、殺傷上等。雨の日の暇つぶしで作り始めた棍棒が東の生活、身体性から生まれているんだなあとマミヤンハウスで話しいて間宮くんと感心しあった。おれの作る棍棒などたかが知れてる。地の利もない。