現在

自分が世界をどう見ていたか、という言葉は正確さを欠く。自分が世界をどう感じていたか、それが今、なんとなく思い出されてきた。私は怒りで目が眩み、身体が凝っていた。思えば歩くことが苦痛以外のなにものでもなくなっていたから、散歩することさえやめていた。あれだけ好きだったものを失った。歩くことだけで充足感を得ることができ、幸せな気持ちになれた人間が。生身の身体で現実を歩いていたのだろう、何の闖入も許さず、何も夢見ず、現実に圧倒されて。私たちは境にいる、現在は境であり、歩行は過去を表し、未来さえ示していると古井由吉は言っている。私たちはつねに右往左往とまじわりを行き交い、歩いている。歩くという行為は重なること、流れることだ。私やはり、私たちなのだろう。それ以外はあり得ないのだろう。まだリハビリをやる必要がある。人の視線とはこうも気にならないものなのかと、こういう風にして私は暮らしていたのだろうと、思い出しながら歩き、歩きながらスマホでブログを書き、ゆっくりと歩きながらいつぶりにのろのろと歩いているのだろうと街灯を見上げるそばから猫と鉢合わせ、身体がほぐれていく気がする。実際はごりごりなので今月の10日にTOMI治療院へ行く。安心していると欠伸がでた。酔いもしないのに、明日が休みでないのに、欠伸が出たのはいつぶりだろう。わたしはせっかちだが、身体はそうではないようだ。実際、わたしも本当はせっかちではないのかもしれない。