ベケットと作品

ベケットは自分の作品に忠実な作家だったと聞く。彼の作品が無許可で上演されるようなことがあれば裁判も辞さなかったようだ。著作権だとかオリジナリティの権限とか、そういった類でベケットの作品に対する忠実さを表現するのは無理がある。ベケットには責任があった。

物語とはだれのものだろう。昨今、囁かれている、著作権の侵害ほど煩わしいテーマはない。物語を0から生み出すことは叶わぬ話だ。物語は何かしらの影響を受け、何かの続きを興じる。物語にオリジンなどはない。生まれた時から、ぼくらは物語と寄り添っている。

著作権とは大変烏滸がましい権利である。完全に物語が物語の続きであることを著者は忘れている。

頑張って書いた、だからなんだ。それを盗用された。盗用されたかどうかなんて誰がわかる。君の作品も盗用かどうかわからないじゃないか。

最近、芥川賞をとった作品にもそんな話が持ち上がっている。極めてどうでもいい話だ。自分の伝えた物語が他者のうえで変奏されることほど嬉しいことはないのでは、とぼくは思うのだが。

自分の書いた物語=自分のものであるいう認識は幻想だろう。人間なんて物語の媒体でしかないのだから。物語とは他者である。自分に孕んだ何者かの記憶である。それを伝えるのが作家の仕事なのではないのかとぼくは考えている。

ベケットはそのことを知っていた。そゆえ作品に忠実だった。作品を他者として認識していたからこそ、ベケットには作品を伝える責任が生まれた。物語を、いやこの話はもういいや。ほかに考えることがある。アディオス