鳥の声は泣ける

鳥の声は泣ける

それは 遠いむかしのことを思い出させる

だれかが鳥に託した想いを 

わたしは鳥の声に聞く

鶏鳴 朝を告げる

わたしなら スズメで事足りる

ちゅんちゅんと わたしは思う

死に死に転がった 夜を越えて

わたしはここへ来た

四畳半に拡がった シミは深い池

わたしの声は跨ぐだろうか

たとえ どんなものになっても

鳥に想いを託さない わたしは

はるかなことを考える

はるか過ぎて わたしの手から巣立つ

ヤクザな季節とその節目を 節目ごとに思い出して また春がやってくる



アニメを見ている。主人公が年々、貧弱になっているのは、視聴者層に合わせているためだろう。エヴァのアスカや綾波みたいな女の子に手を引っ張られ、世界の命運をかけて闘う。

この手の話は今や王道となった。時代を反映しすぎている。共感か、したくないな。しても良いが、そんなに誰かと共感したいものだろうか。お前たちの見たいものを見せてやる。結構だ。涙にも色々な涙がある。涙の種類をおれは知っている。人間として生きている我々には、対人間用の涙があり、ピュシスに触れたときに流れる涙がある。なんでもよい、おれの目の前にある広告をすべて見回してみよ。そのうちの、映画広告を見たまえ。そのうちのほとんどは、おまえに人間としての涙を浮かばせる。人間は泣けるように作られている。坂口安吾はそのようなことを言っていた。

共感はいつも肌のうわをなぞる。互いに分かり合えたような顔をして人間が人間になりすます。共感しようもないあなたの話が耳に聞こえる。本当は我々が共感しあえることなどないのだ。手鏡でもしていた方がよっぽど慰めになる。

おれのこの、偉大な屈辱は、なあ、おまえたちの与り知らぬ、永遠に知ることのないところ。おれは車に乗れない。











文化的に終わってる

信用していたのに残念だとか、好きだったのに裏切られたとか、ようありますわな。というか、よう聴きますわな。芸能人のスキャンダルとかでさ。ほんで、応援してます!とかも、それと同じくらいよう聴きますわな。口から出るもんはタダやから、アホみたいにみんな言うねん。鬼情けない。勝手に応援して勝手に失望して裏切られましたっておまえらどんだけパーリナイッやねん。まあ例えばドラッグね、ミュージシャンがドラッグで逮捕されたらそんな人だと思ってなかったのに!とかね。ミュージシャンにまでクリーンさ求めるあたりヤヴァい。その人の作ってる音楽が好きなのであれば、人格やら良識やらを彼らに求めないだろう。

そもそも応援するって軽々しく言うけど、ケツ持つんは本人やねん勝手やねん、おまえの人生がおもんないからって誰かを応援して退屈潰してるだけやん。逆におまえに喜怒哀楽を与えてくれるシャブ中に、より感謝を捧げよ。どうせ飽きたら終わりっしょ。おまえが飽きても、ミュージシャンの人生は続く。勝手に聞いて勝手に離れろ。作品との距離感はそれくらいでよい。作者が死んでようが、捕まってようが、作品は残る。作者の人格がどうであれ、作品は既にある。黙って聞いとったらよろしいがな。

皆様にご迷惑をおかけ致しました!応援して頂きありがとうございました!社会的な身体への謝罪。皆様は謝罪を求める。くだらない皆様の人生はだれに謝ったらええねんやろうな

往還

いつかはしっかりとちゃんと仕上げる気だったが、もはや、そんなことはしないだろう。という諦めから、およそ三年前に書いたものをアップロードした。夜な夜な何かに駆り立てられて、ひたすらに文章を書いていた日々のなかで辛うじて意味が通じて最も長いもの。色んなものに影響を受けた。その影響を隠すことさえせず、勢いが死ぬまでやり続けた。途中でカンフル剤でも打つかのように、自分を興奮させる言葉を文とは無縁に穿ち、流れるままにしていた。

ぼくは詩から物語へ入ることが多かった。今は夢をみたときにしか物語ることがない。伝えたいものなど何一つなかったし今もない。文を書くのは楽しい。『〇〇が死んだ』と書けば〇〇は死ぬ。『でも、〇〇は生き返った』と書けば〇〇は生き返る。死と生を簡単に往還できる、ありえないことが文の上では行われる。文は揺らぐ。書いてる人も読んでる人も揺れる。明日にはロンドンへ次の文ではブラジルへ、出身地も変えれば良い。意味の統合性は死に、意味の衣擦れが浜辺に転がる漂流物のようにただ有る。ことばは人間の環世界間移動能力を極限へ導く。

海辺へ行くような気持ちで文章を読むと、文章が全く読めなくなるのは、きっと意味の統合性に満ちているからだろう。

ぼくは殆どの時間を本を読んで過ごしていた。本はぼくに言葉も光景も与えた。本はぼくの闘争心を煽る。でも、いつからか、掌で転がされているような感覚を覚えてもいた。ぼくは迷子だった。彼らの影響に負けたり、勝ったりしながら道を進んだ。それが書くことだと思ってもいた。

あたらしい言葉を獲得するのはある種の快感を覚える。知っていたことを一言で表せる言葉は非常に便利だ。それを駆使してもっと深く広く物事を考えられるようなる。ただ広く考えられるようになったからといってどうなる?そこに快楽を見出せている時期はそれでいい。でも、それが終わったらどうなる。だれとも話せない自分が残る。言葉を知るものとしか話せなくなる。ぼくはヘンリーダーガーではなかった。

今は何が好きなのと訊かれても答えることはできない。ファッションか?と訊かれても首を横にふる。書くこと/読むことが最も好きだった時代に戻りたいかと訊かれても答えはノーだ。社会人は楽しいか?と訊かれてもノーだ。知的好奇心はほぼ死んだ。

次はまた何かを作るのだろうか。日本のため、世界のため、来世のため、そんなどうでもいいことのために書くことなどない。至極どうでもよいものの中に、ただある身体が不思議であるとともに不思議でない。明日には一時間後にはまた考えも変わってるだろう。その振れ幅がなければ死んでいる。これまさに環世界間移動能力の賜物!

ナポレオンの息子

ナポレオンの息子は父親が死んでいることを幼いながら理解していた。彼が生まれて父親はすぐにこの世を去った。ナポレオンの息子はぼくに聞く。「もしも、あのとき、(弟の名前)が俺の親にならなかったら、(ぼくを指差してー)は俺を育ててくれたか?」

声はまだあどけないし、背も幼児と変わらない、肌もまだ餅のように白く穢れのない、この子だが、手足が長く、頭も小さかった。「育てたに決まってるじゃない」ぼくは社交辞令のように、あの厭らしい笑みを浮かべた。周りの空気が一瞬止まったような気がした。ぼた雪が背骨を伝うような後ろめたさを払拭するように、「いいや。まだ。あのときは、あのときはまだ、幼すぎだ。ぼくはまだ10歳にもなっていなかった」

ナポレオンの息子は不思議そうな顔でこちらを見た。彼には歳を重ねるという概念がなかったのだろう。かれは生まれた時から今までなにも変わらず、身体と周囲の変化を理解していた。ぼくたちの一族はナポレオンが死んだあと、みんな散り散りになって旅へ出た。弟はナポレオンの息子と猿を連れて、ぼくは一人で、ぼくらは追われていた。捕まって殺されるはずだった。もう二度と会うことなどないと思っていたのにインドでばったりと会ってしまった。

「そうやねん、こどもがこどもを育てられるわけがないんよお。○○ちゃんにしてもやで?だから、わたしがみいいんな、0から育てたんや。わかるやろうなあ、今やったらわかるやろう?なあ〜」

どこからともなく現れたこの女は、めっきりと歳をとったせいで誰か分からなかった。目の下もめっきり黒く、肌は弛み、枯れ木のような腕にはジプシーの娘を彷彿とさせるような細い銀の手飾りを幾重にもつけていた。女が手をあげるとジャラっと音がする。真っ赤なターバンの結び目から下が風が吹くと美しく舞った。

ぼくと弟は「嗚呼、確かに」とかも納得したかのように感嘆をあげ、腹の底ではお前の話は聞いていないというような気持ちでナポレオンの息子を見た。ナポレオンの息子は蔦を登り、遥か上の平たいところで猿と戯れていた。太陽が地平へ沈もうとしていた。一日が終わる。

一日が始まった。夢から醒めた。雨がしとしと降ってら。レザーパンツが濡れた。こういう日は図書館へ行くのが良い。ゆっくり本でも読む。雨の日は本を読むためにある。本は雨の日のために。人間が開発した高尚な、暇つぶし、読書。

朝も夜も昼も木馬

パクリパクられ、文化の盗用、剽窃、どうでもいい。自己啓発本関係であるあるなのが、『これは昔に〇〇が言っていた』とかいうクレームである。どうでもいい、自己啓発本は言葉を置換しながら増殖する神話体系なんだから、今後も変わらない。クソしょうもない。それと同じくらいどうでもよいことがある。パチモン撲滅運動である。

パチモンを撲滅しよう!と言ったところで、パチモンは減らない。本物を買う人も、パチモンを買う人も同じ地上にいて、同じ世界に住んでいない。

人間は衣を以て位を成してきた。それは昔も今も変わらない。人間は位に欲情する。ファッションはその彼岸にある。ファッションは記号を錯乱させる。ファッションは形である。だからファッションをしている人間は人間ではないということだ。ファッションにおいて、パチモンかどうかは大した問題ではない。ファッションには、パチモンという概念がない。

ただパチモンは醜い。これは認める。複製画などいらない。有名人の格好をトレースしている人間くらい醜い。つまりは流行が醜い。ラーメンの替え玉くらい醜い。人間は醜い。

おれは最近諦めた。才能とかそういうのではなく、無理な奴は一生無理だ。システムに迎合できない一握りの奴らの系譜は永遠に少数派のまま。この世界は赤子のふりをして年をとる。何が21世紀だ。何が22世紀だ。何世紀経とうがクソはクソだ。何世紀遡ろうとも同じだ。何の闘いだこれは。何を伝える?みんな自由に発信できる時代になったらしいが、ぼくもその光を授かっているが、太陽ヅラした奴らがおれおれアピールするけど、所詮太陽なのだ。太陽って名前をつけようが大洋だろうが大陽だろうが、人間である。おまえらは醜い、そして、おれも醜い。危ないところへ走っている。そろそろなにかを書く時期に来ている。