形と静止

形と静止

風が灰を攫うまでわたしはここにいる

風が灰を攫うまで煙草を咥えよう

ここにいる

凪が吹く 煙をさらう

口から 遠のかせる 煙

それについて語ろうとする 口は

なにかを話はじめる

日常に潜む崩壊の足音を

カートコバーンの指は弾く

カートコバーンは楽譜通りには弾けない 引かない

カート コバーンは日常にクラックが走っているのを知っている

カートコバーンは嘘はつけない

カートコバーンはバロウズの詩しか読めない

カートコバーンは気分屋

カートコバーンは魚座

カートコバーンは暗くはない

カートコバーンは死んだ

クラックがカートコバーンを蝕んだ

カートコバーンは嘘がつけない

カートコバーンは身体が弱かった

カートコバーンはギターを弾かない 弾けない

風が灰を攫うまでわたしはここにいる

風が灰を攫うまで煙草を吸い続けよう

ここにいる

口は黙った 夜が来た 目だけが冴える 冴える ぐうううううん 夜が聞こえる 冴える 音が収斂していく波 が たった一つの缶ビールに 溶けていく

たった一つの それはたった一つの

アルミ製 ある人にとっては貝殻 拾われる換金できるモノ

さあ 星よ煌めけ 真昼に群がるビーチのうえで 鐘が裂かれる 空のジッパーを剥がして あの世に挨拶をするために 蜘蛛を散らす マルタ 淘汰

さあ 目のある者は これ見よがし

さあ 耳のある者は これ見よがしに

さあ 脚のある者は これ見よがしに

わたしたちには輪郭がある それ以外は共通項に過ぎない 輪郭があればよい 我々は形である がゆえの 力動の唄

パールハーバー

‪未だ発酵していないか、噛み疲れたかしてそれは未だ‬ まるで昨日のことのように鮮度があるから新鮮味に欠けるのだ。

‪未だ出会わなくとも良い 未だ可能性がある まだ速い あるいは遅すぎる合流 再会が早すぎた あるいは早く別れすぎたか いずれにせよ それは未だ夏場の火照ったベンチのように 夜を越えて燃え上がる‬

‪傷ではない 飽きたわけだ 傷よりも裂けている それは長く 深い 川だ おれの頬に傷はない 裂け目に川が流れているのだ 退屈なディープリバー 俺の頰のうえで 世界が流れる 過去が映る今 おれのディープリバー 狂った地層 パールハーバー ラブホテルの名前‬

‪いつからか いいからと 金もないのにホテルびたり 三日に二日は外で寝て 三日に一日 ホテルに泊まる パールハーバー 裂け目にひっかかるあの愛撫 パールハーバー 変わらないのはインディアンの魂 獣じみた夜 人との淡いに揺れる そんな日々が日々流れる‬

ベケットと作品

ベケットは自分の作品に忠実な作家だったと聞く。彼の作品が無許可で上演されるようなことがあれば裁判も辞さなかったようだ。著作権だとかオリジナリティの権限とか、そういった類でベケットの作品に対する忠実さを表現するのは無理がある。ベケットには責任があった。

物語とはだれのものだろう。昨今、囁かれている、著作権の侵害ほど煩わしいテーマはない。物語を0から生み出すことは叶わぬ話だ。物語は何かしらの影響を受け、何かの続きを興じる。物語にオリジンなどはない。生まれた時から、ぼくらは物語と寄り添っている。

著作権とは大変烏滸がましい権利である。完全に物語が物語の続きであることを著者は忘れている。

頑張って書いた、だからなんだ。それを盗用された。盗用されたかどうかなんて誰がわかる。君の作品も盗用かどうかわからないじゃないか。

最近、芥川賞をとった作品にもそんな話が持ち上がっている。極めてどうでもいい話だ。自分の伝えた物語が他者のうえで変奏されることほど嬉しいことはないのでは、とぼくは思うのだが。

自分の書いた物語=自分のものであるいう認識は幻想だろう。人間なんて物語の媒体でしかないのだから。物語とは他者である。自分に孕んだ何者かの記憶である。それを伝えるのが作家の仕事なのではないのかとぼくは考えている。

ベケットはそのことを知っていた。そゆえ作品に忠実だった。作品を他者として認識していたからこそ、ベケットには作品を伝える責任が生まれた。物語を、いやこの話はもういいや。ほかに考えることがある。アディオス

種をまく人

種は実らないかもしれない

実らないこともあるのだ

実って欲しいとも望まない

勝手に実ればいいし、勝手にやめればいい

別に実っていう名前をつけたところで

生が実るとは限らない

肚のなかで死ぬこともあるだろう

車に轢かれて死ぬこともあるだろう

そもそも実という名を付けないこともあるだろう

ぐらぐらと揺れる橋を渡っている

落ちるかもしれない 落ちないかもしれない そもそも橋を渡っていないのかもしれない

もしかすると橋を揺すっているのかもしれない

もしかするとそんな橋ないのかもしれない

種は実るか それは必然か 必然のように見えるのは志向性のせいか

偶然か必然かなど現実においては関係がない ありふれた当たり前でない奇跡の石よ

種を蒔いた 収穫する気などはない

勝手に育てばいい

そもそも実るとはなにが実るのか

霜の花か 食えるものか 夢か

それよりも その花を見れるとでも

それよりももっと甘美なるものを

『おお友よ、このような音ではない!我々はもっと心地よい、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか』

歓喜の歌は否定から始まる。唐突な宣言とともにメロディがはちきれ、全能たる世界が顔を覗かせる。この世界は満ちている。あらゆる力が漲ってくる。身体から迸ったオーラが歓びへと炸裂する。まるでその様子は身体が血の花を咲かせるような光の破裂を思わせる。身体はただの輪郭であり、身体中には電光石火の光が駆け巡る。名指されたものから次第に爆ぜるように、次々に身体が爆ぜるのだ。

そもそも一つのメロディを奏でるために、何人もの人間が集まっているのだ。歌を奏でるためだけに集まる、まるで採光性の生き物みたいだ。何もクラシックだけじゃない、あらゆる所、あらゆる人々はそうやって歌を奏でている。

奏でるとは、メロディになるということはどういうことなのだろう。協奏曲というのは不思議なものだ。一つのメロディを奏でる、幾多のものが一つのメロディを構成する、このありえなさ。

間違いない。人間が今を超越するために歌は生まれた。

『そうだ、地上にただ一人だけでも

心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ

そしてそれがどうしてもできなかった者は

この輪から泣く泣く立ち去るがよい』

この輪から立ち去った者もいる。笑いながら、苦し紛れに、泣きながら去った者たち。で、わたしは思うのだが、歓喜の歌は立ち去った者にしか届かないのではないのか。その者たち、その者たちこそ人間である。

あいうえお作文

あ あんただけには

い 言っておきたいことがある

う うちらってな

え えらい

お おそくに生まれたもんやなあ

生まれたのは正午が回ってから。そのせいか、寝起きがとても悪く、朝に起きだししまうと別世界に飛び出したかのような心地になる。新鮮で不機嫌な朝が過ぎると、いつものような気怠い時間がやってきた。こんなにお熱な太陽がぼくの肌をタンドしているのに、このぼくときては日々の鬱蒼とした想いで押しつぶされそうになる。

今日は始まりから憂鬱だ。これからどうして生きていこう、と考えながら自転車を漕ぎ、始まりからあまりにも疲れすぎていたから、サブウェイに乗り換えた。憂鬱である。やっぱりどうあがいても憂鬱である。家に篭ってじっとしながら、寝たりしてサンが地上にセットしていく様を、オレンジに染まる自分の部屋で過ごしたくはなかった。そうすると余計に歌が深まる。シコリ倒して夜が始まるのを待ちたくない。外へ出る。眼に映る全てのものは刺激物だらけで、ぼくのアンチソーシャルな気持ちを一層掻き立てた。『こういった現存在』と関わっていかない限り、経済的に貧困していく。そして、今関わっている。

関わりを断ちたいわけではないし、働きたくないわけではない。もっと本気だしたいし、自分の狂気を解放したい。作るという言葉が重くのしかかる。怒りと怠さと眠たさと、ないまぜになった心は身体から湯気のようにホルモンを散らす。アトモスに乗り込み、虚ろな目で靴を眺めていると、店員さんの慄いた目をおれの目尻が捕らえていた。視線とは目の数だけあるのを忘れていたから、少し驚いた。

暫く歩く。恣意的な値段設定が散見する街で、値段とはいつも恣意的なのだけれども、なお仕事が嫌に輝いてくる。仕事、接客、この人たちは意味のわからないクレームへの恐れから婉曲表現を強いられた人間たちだ。これが日本の仕事なのだと思うと、侘び寂びだ。侘び寂びは今、別用に輝いている。言葉は反復する。意味はほとんどそのままに、背景だけが絵馬のように変わる。

街をまだあるく。腹にタコライスを入れると元気が出た。それでも、人はこうも煙たくて煙草に巻かれるよりも辛い。歩いた。ある古着屋へ行った。いつもは滅多に行かないところだ。店員さんの態度がやけに初々しく、友達のようなスマイルを浮かべてくるのでこの人は帰国子女なのだろうかと考える。年齢を聞かれる。

『16歳!16歳ですか!!』とこの店員さんの愛嬌は素晴らしくナチュラルでいいのである。話を聞くうちに彼女が16歳であることが判明し、色々と納得した。

素直であるということ、友人が言うに、革命は狂気ではなく、素直さが引き起こす。まさにその通りだろう。上の階に行くと、21歳の店員さんに『アパレル入った方がいいですよ!イイです!顔がイイです!』と言われ、謙遜するのもおかしいし、ありがとうございますと返事をした。ぼくもアパレルはいいなあと思うし、もうぼくにはそれしかできないなあと思うこともある。服の歴史は深いから、そこへダイブできる楽しみもある。時代をズラしたり、時代性の強いものから時代性を剥ぎ取ってコーディネートに還元するのも好きだ。

ファッションはズラすことができる。今日も実は、ズラした。ハンティングベストを、トーンの異なるショーツと合わせて似非セットアップを作り、チェーンショルダーと茶色のタンクトップ、厚手のホワイトのソックスでストリート色を出した。

色、生地、サイズ。を身体の上で配置させる。コラージュだ。絵を描くことではない。あくまでコラージュだ。ぼくの文章もほぼ配置だ。最低限の文法をベースに組み合わせる。言葉が加速し、想像が加速する。文法の上で意外なものと意外なものが混ざり合い、何かがすり抜ける。疾走する馬の筋肉を競馬場で眺めるのではなく、この街は疾走する馬の筋肉だとかしてみる。強さだけが響く。強い磁場みたいなものが次の言葉を可能にし、不可能にする。

女子高生にアパレルの接客される機会があまりないから、すっごいいい体験した気分になり、ライオンマジックのおっちゃんに伝えようとお店へ出向いた。

ここでぼくは1つの暴力を働いている。ぼくは店員さんを女子高生と呼んだ。ぼくの言動は、店員さんから個性を剥奪し、ただの社会的な身分である女子高生に置き換えている。名詞の悪夢、名前の悪夢。どちらも悪夢。

おっちゃんはいつも飲み物をくれる。夏はジュース、冬はコーヒー(たまに昆布茶)。今日はザクザクに氷が入っていた。一杯目を飲み干す。二杯目を注いでくれる。ぼくは大体、二杯飲んでいる。古着でわからないことがあれば、おっちゃんに何でも聞く。何でも教えてくれる。ぼくはこういうおっちゃんに出会ったことがないので、初めて会ったときはびっくりした。

プライスには値段が書いていない。たまにエッセイが書いてある。店内には爆音でレゲエがかかっている。今日はJ-popがかけられていた。ぼくも大沢誉志幸を聴いていたので調子が合った。モノを買う。カッコいいから買うのだけれど、それと同じくらい誰から買うのかは大切なことだと考えている。

ぼくはヤフオクもメルカリも使う。そのとき、ぼくはモノだけを買っている。古着屋で買い物をする時とはちょっと違う。ぼくは強くこの人から買いたいと望む。

何か今日は幸せに満ちていた。色んな関係がある。色んな人への触れ方がある。売り買いも関係である。そこにも色んな売り方、色んな買い方がある。19時も回った。服には思い出が染み付いている。服に金を払うとは、その縁を切り、新たな関係を結ぶことだ。ぼくは今日、四着の服と新たな関係を結んだ