われはかみなり

我は神なり われは雷。あまりにも恣意的な規則により、2018年を迎えさせられる羽目となった。神社へ行けば御神籤をひく。賽銭やらを入れることはないが、お邪魔しますとは言う。森へ行っても、人の家へ行っても猫の住処へ行ってもお邪魔しますとぼくは言う。地霊や地の利を信じている。だれかの住処へ行くときは部外者であることを心得ている。

初詣にはアホみたいにひとが集まる。恣意的な行事だ。御神籤で神社(場所)がどれほど、ぼくを好んでいるか確認する。一種の対話である。恣意的だ。

キキちゃんを連れて地元の神社へ行った。御神籤を引いた。『願いなさい、神を拝みなさい。中略。清き願い以外は神に届かない』なるほど。神は偉そうになった。ここの神と相性が悪くなったのだろう。大吉とは思えない内容で思わず吹いてしまった。

御神籤はどうやって入荷するのだろうか。ロット数があるのだろうか。いつ発注するのだろうか、とか考えていた。流通のプロセスを考えたところで神(縁)を阻害するとは、ぼくは思えない。

偶然ではあるがそれにあたり、そこに文字が書かれているこのプロセスが神を壊すならばそんなもの壊れてしまえば良いのだ。偶像崇拝よりたちが悪いじゃないか。超越的なものを神とは呼ばない。さらに言えば、超越的なものは存在しない。超越的なように見えるだけではないのか。

ぼくは信じると言う言葉があまり好きではない。信じるというよりも認識しているという方がしっくりくる。ぼくは神を認識している。地霊である。縁である。