弱者

貧しい者の心はきれいであるという嘘っぱち。金持ちは心が汚いという嘘っぱち。貧しい者たちの最後尾に回る者こそが真に利他的であるという嘘っぱち。

弱者とは貧しい者のことなのだろうか。貧さで弱者かどうか決めるのは無理があるのではないか。ある苦しみ、ある抑圧にうなされる者が弱者と呼ばれる存在なのではないか。貧しかろうと富んでいようと嫌味な奴はいる。弱者はきっと、そいつらに抑圧された者たちのことだ。

ここから服の話になる。

貧しい者の多くはデザインが良いか悪いかを二の次にして、それと分かるブランドものを買おうとする。どれだけボロボロであれ、分かりやすいブランドを買う。金持ちにもそういうタイプの人間がいる。これを社会は成金と呼ぶだろう。

多くの若者は露骨にシュプリームと書かれた服を買う。逆に言えばシュプリームでもシュプリームと書かれていないシュプリームは人気がない。

一目でそれと分かるものを着ればコミュニケーションの可能性は広がる。多くのアジア人はロゴを買う習性がある。

企業はここに漬け込む。良いものなど彼らは求めていない。ロゴさえついとけばいいのだ。べつにいい生地を使う必要もない、職人一人一人の手仕事なんて誰も見てない。アップリケでロゴ付けたらみんな喜ぶのだ。偽物でなければ。

貧しい人間も金を持った人間もロゴチェイサーの若者も、みんな同類だ。嫌悪の対象だ。相手の生い立ちを聞いて同情することもないし、サクセスストーリーを聞いて拍手を打つ気は全くない。

多くの人間は貧しい。ぼくはその貧さがほんとうに嫌いである。こんな奴らに終生寄り添うくらいなら首をくくれと昔の自分なら言うだろうけど、今はなんとなくそれも違うような気がしている。

生に対する執着はないが(死にたくはない、終わらせたい欲望は常にあるが)、それだけで死を選べるかと言われれば無理がある。

で、そいつら全員を殺せるかと言われればやっぱり出来ないのだ。関わりたくないだけで。関わらずにどうやって生きりゃあいいのだろう。手に転がすのも転がされるのもうんざりだ。

通勤中、頭の中で初めて作った陶芸を思い浮かべていた。大きく口を開けた人間の舌が馬になっているオブジェである。20歳のぼくはどんなことを考えてそんな物体を作ったのだろうか。気をてらうつもりなどなかった。馬に翼をつけて耳から出してやろうとしていた。舌が馬になる。その時、ぼくは耳の内側から音を聞く。舌馬。舌が馬になる頃には、唇の尻が裂けて顎関節が外れ裂け、泣きながら舌馬を見ることなるのだろう。馬は舌をふさふさの尻尾にして風をかける。舌のないぼくはそれでも生きているのか。