砂の女

都会に住んでいる。東京に比べれば、とんと人も街も少ないが。都会で生きる術、都会と自分を結ぶ縁としてファッションを据えていた。それが昨日に断たれた。その契機となったのは、映画 砂の女だった。

人間は環境に見合った欲望を見出す。都会で出来ること、ぼくの手短なところではファッションだった。ちょうど砂の女の主人公が砂漠のなかで貯水タンクを作り、それにのめり込むように。欲望はインスタントなのかもしれない。まるで人間に欲望がないと言いたげだと思えるかもしれないが、決してそうではない。

生きるため、意味を見出すためにはそのような欲望みたいなもの、自分と環境を結びつける動機=縁が必要なのだ。これをインスタントな欲望だと言っている。

近頃は欲望について考えることが多かった。経営者の欲望、家畜の欲望、繁栄の欲望、数を増やす欲望、インスタにおける承認欲望。100万円と自分の心を天秤にかけて、言いたくないことを言うのだ。心を擦り減らして、金と名誉を追いかける。芸能界はそういうところだ。と友人は言った。芸能界だけか?社会に生活を預けている人間はみんなそうだ。そんな生活が続く動機はなんなのか。

話を戻す。『その気になれば、いつでも逃げられる』と砂の女の主人公は映画の終りに述べているが、その言動はまさしく砂漠(社会)に癒着されている様を示す。『その気になれば』とは『インスタントな欲望が在り続ければ逃げることはない』ということに置換できる。インスタントな欲望は一つではない。代わる代わる隙間に忍び込む。主人公は貯水ポンプを作った後、それを砂漠の住民に話したいと語っている。貯水タンクについて最も興味を示す人間は彼ら以外にはいないとも話す。砂の女はハッピーエンドだ。主人公は街に帰る必要はない。もはやインスタントな欲望はインスタントではなくなり、自分と砂漠との環境を意味付ける縁、確固たる存在証明へと変化した。その気になるはずがないのだ。

それを前置きに、都会に住む人間、田舎に住む人間、ある環境に身を置く全ての人間の存在証明とは何かと考える。例えば、都会の住民の多くは消費することによって、インスタントな欲望をインスタントなまま、生きる動機を置き去って暮らしている。社会が魅せる夢のなかでぐるぐると網の中を回る魚のように周遊している。厳密に言えば彼らに動機はない。

砂の女の主人公はダブって見えた。ぼくのファッションは消費でもあった。インスタントな欲望と創造の往来にあった。社会とぼくを貯蓄によって結び直す。社会をよりよく生きるためではない。ファッションはぼくの存在証明にはなり得ず、貯蓄もまた然り。